回答ありがとう御座いました。

残念ながら今回も私の質問を満足する回答ではありません。

しつこいようですがもう一つお願いします。

あなたが自分の定義だと思っているものは、あなたの話しによるとそれぞれの宗教の 言うところの神の定義でしょう。(これには回答不要)

また、別の言い方をすれば、あなたが神の定義について質問されたときに、どのよう に回答するかの定義なのではないのでしょうか。(これにも回答不要)

そして、その根拠は、それぞれの宗教の経典からの引用であると思います。(経典に はこのように書いてあると回答しているのと同じ)

改めて、あなたの神の定義をお聞かせ下さい。

ヒント:普遍的でなくても結構です。ユダヤ教やキリスト教にこだわっていらっしゃ いますが、これも結構です。

一つ言い忘れてました。

定義を聞いているのに定義は無意味であると言う締めくくりは変な不思議な感じがし ます。

無意味と思ったそのときあなたの思った神は、どのように定義されたのか新たな興味 をそそられました。(上記の質問に満足したあとは、是非これについてお聞かせ頂け れば幸いです。まだ、回答不要です。)

頑張ってください。

(1)コミュニケーションの道具としての言語

matsudaknhさんは、このメールを通じていろいろ質問をされていますが、それは、そのなかで使われている沢山の言葉の意味を読む側が理解できるはずである、と前提にされているからでしょう。そうでなければ、そもそも、他人に語りかけるなどということはしません。しかし、いったいいかなる根拠で、読む側はmatsudaknhさんのメールを理解できると思われたのでしょうか。「ちなみに、私の神の定義は、全智全能全ての全てにして創造主は、間違い無く神である・・・」などと言いながら、「ちなみに」「私の」「定義」「全智」「全能」「全ての全て」「創造主」「間違いなく」「である」等の言葉に関するmatsudaknhさん自身の独自の定義を提出されていませんが、それは、これらの言葉に関するmatsudaknhさん自身の独自の定義を提供しなくても、聞く側はこれらの言葉を理解できるはずだと前提にされているからでしょう。つまり、matsudaknhさんは、定義なしに使用されている沢山の言葉(日本語)の意味は、当然、その共同体(日本人)に共有されているはずだ、と前提にされているのです。

これは、当たり前のことです。言葉はそもそもコミュニケーションの道具なのであって、言葉の意味が各人で異なっているとすれば、わたしたちは言葉をコミュニケーションの道具として使用することはできません。もちろん、一般に理解されている意味とは違う意味を持たせたい場合は、わたしたちは、聞く側に対してその問題となっている言葉をことさら再定義して、一般に理解されている意味とは違うことを示さねばなりません。しかし、たとえその場合でも、定義を説明するためには、他の言葉を使用しなければなりませんから、そうすると、もし、説明に要した言葉の意味が一般に理解されている意味とは違う場合は、こんどは、説明に要したそれらの言葉の定義もまた提供しなければなりません。これでは、どこまでいっても、とどまることはありませんから、使用される言葉が独自的なものであるかぎり、言葉はコミュニケーションの道具としての機能を喪失してしまいます。

しかし、実際には、言葉は、そのような底なし沼に沈み込むことなく、コミュニケーションの道具としての機能を果たしています。それは、言葉の意味というものは、結局のところ、各自それぞれ独自のユニークなものではなく、その言葉が使われている共同体のなかで、一般に共有されているものだからです。だからこそ、matsudaknhさんも、定義も提供しない沢山の言葉を使ってメールを投稿されました。また、「神」の定義に要した言葉の定義を提供しなくても、それで「神の定義」はおわったと思い込むことができるのです。


(2)言葉の意味(定義)について

辞典編纂者が言葉の意味を定めるとき、どのようにするかご存知でしょうか。安っぽい辞典なら、他の辞典からその意味を拝借するのかもしれませんが、オリジナルの辞典においては、言葉の意義はどのようにして定められたのでしょうか。

言語学者の S.I. Hayakawa の「How Dictionaries are Made(いかにして辞典は作られるか)」という小論文によれば、辞典編纂者が言葉の意味を定めるとき、それは大体次のようなぐあいに定められるそうです。ある言葉「X」の意味を定めるときは、「X」が使われているコンテキスト(文脈)を様々な資料(新聞、雑誌、書籍、古典、等々)から抜き出し、それをカードのようなものに記録して集積します。そして、集積した「X」のカードを、同様なコンテキスト(文脈)で使われているグループに分類します。そのようにして分類されたコンテキスト(文脈)によって言葉「X」の意味が決定されます。

それは、わたしたちが、生まれてから言語を習得していく過程でも見られるものです。つまり、わたしたちは、それぞれの言葉がどのように使われているかを見ることによって言語というものを習得していきます。つまり、言葉の意味とは、それがどのように使われているか、を述べたものに他なりません。

他人の編纂した辞典を見なくても、「X」という言葉が、クリスチャン共同体のなかで、いかに使われているかを見ることによって、「X」という言葉の定義を決定することができます。「神」ということばが、クリスチャン共同体のなかで、いかに使われているかを見れば、聖書やキリスト教のコンテキストでは、「神」が正義と愛の人格をもっており、全知全能であり、世界を創造した主であり、その語る言葉は真理である、等々、ということは、簡単にわかります。

わたしは様々な宗教的伝統の中で語り継がれてきた物語の中の存在(「梵天」、「ヤーヴェ」、「天照大神」、「氏神」、「カムイ」、等々)について語るのですから、わたしが、それぞれのコンテキスト(物語)のなかで共有されている意味を定義として使うのは当然です。共同体に共有されている意味とは別の意味を持たせる場合ならば、わたしは、その言葉を再定義しなければなりませんが、ある共同体の中で、共有されている意味で言葉を使用する場合は、matsudaknhさんもそのメールの中でいちいち定義されていないように、言葉の意味をことさらに定義する必要はありません。

しかし、全ての辞典は平等に作られているわけではありません。ある辞典は他の辞典よりもすぐれています。よりすぐれた定義は、より広範なコンテキストから資料を集積し、より正確な分類をしています。宗教という多様な文明の語る「神」という言葉の定義は多様なものであるのは当然であって、それをたった一つの定義で済ませるような定義は、あまり信用できないあやしげなシロモノと断言してよいでしょう。


(3)定義は無意味?

定義を聞いているのに定義は無意味であると言う締めくくりは変な不思議な感じがします。
わたしは、「定義は無意味である」などとは言っていません。いったいどこからこのような誤読が生じたのでしょうか。「しつこい」のはかまいませんし、わたしの意見が無視されるのも一向にかまいませんが、批判し、かつ、その批判に対する応対を求めておられるのなら、もっと正確に読んでいただきたいものです。

わたしが「無意味である」と言ったところのものは何であったのか、どんな根拠でわたしはそれを「無意味である」と主張したのか、それが理解されねば、わたしの神の定義がmatsudaknhさんに理解できるわけがありません。そこをつかんで、もういちど、出直してください。