佐倉氏の主張にはすごい偏った理解と先入観、こじつけの解釈が含まれています。

(1)『老翁老婆となってセックスの楽しみなどあるはずがないつぶやいた物語

サラは「年寄りになって何の楽しみもない」とつぶやいたのであって、セックスに限定しているのではありません。佐倉氏はどうしてもこの物語を”矛盾させたい”ためにサラの発言を自己主張に基づいて解釈してるのであって聖書の記述から大きくはずれています。

(2)素晴らしいこじつけ・・・『きわめて滑稽で矛盾した物語となっているのです』

この物語は確かに現代の我々から見れば滑稽ですが、いったいどこと矛盾しているのか、佐倉氏はどの記述とくらべて矛盾と判断しているのかがわかりません。セックスの楽しみがないとしても、アブラハムはサラの『美しさ』の故に自分が殺されるのを恐れたのであって、サラとのセックスが非常に快感だったからとか、テクニックがあったからとかの理由では全くありません。セックスができようが、できまいが美しさとは何の関係もないでしょう。ところが佐倉氏は「セックスの楽しみ」と「容姿」と「アブラハムの恐れ」を自分の主張通りにしたいために無理矢理関係づけているのです。

(3)それらしく聞こえるが全く異なる例え・・・『「1+1=3」

「1+1=3」という計算式において、それが間違っているか否かは、この計算式が書かれたとき、それを書いたひとの頭の中でなにが起こっていたか、というようなことにはまったく依存していません。
さて、自分で書かれていて全く気付かれないのかと思いますが、「1+1=3」が誤りだということは「1+1=3」ということを検証する以前の問題です。それを信じる信じないという事以前に誤りだという事が数学的に100%証明できるからです。この例えとここの物語とではまったく意味が違う問題です。「1+1=3」は100%誤りだと結論できますが、サラの物語は100%矛盾だと結論づけられないからです。にもかかわらず佐倉氏が100%誤りだと主張される根拠は「常識に合わない」、「自分の解釈と合わない」、「他に事象が無い」、「矛盾しているという先入観」による以外の何者でもありません。

こんな簡単なことを間違うはずがないのだから、間違っていると認めるわけにはいかない」、などというのは駄々をこねているだけといわねばなりません。
という事ですがむしろ、「私の常識に合わないのだから、正しいとは認められない」と佐倉氏が主張されているのです。これこそだだをこねているだけではないですか。佐倉氏は最初から自分の「ものさし」に合わないものは間違っていると、エホバの証人のごとく思われているだけで主張されているのです。そして自分のものさしで反証できなくなったら、「うっかり」とか、「だだとをこねている」とか、「根本主義者の盲信」だとかおおよそ裏付けのない主張をされているだけです。

(4)「矛盾」というのは同一の事柄が整合のない事を言う

妻を妹と偽る物語」が間違っているのは、20章の物語と17・18章の物語が矛盾しているからです。矛盾しているということは、両方とも真実である可能性がないことを意味しています。すなわち、すくなくとも一方の物語は間違っていることを意味します。
17・18章と20章の物語をどのように読んだら同一の事柄に関わるものだと判断されたのか理解しかねますが、17章18章ではサラが妊娠するという「神の予告」に対してサラが「何の楽しみ(セックスも含み)もない」という物語で、20章ではアビメレクがサラを召し入れて神の警告を受ける物語です。さて、このまったく関連性が無い2つの物語をどう読めば矛盾がでてくるのでしょうか。ここに矛盾があると主張されているのは「女を召し入れるのだから女は若く美しい者でなければならない」という人間の基準に合わせた解釈しかしていないからです。だから、サラの年齢設定を変更しなければ佐倉氏の中で話しが合わないのです。
矛盾しているという事実だけに依存して、「この物語は間違っている」という主張が成立しているのです。
佐倉氏が自分で矛盾と決めつけているだけです。それゆえ、この物語が間違っていると主張できるのです。事実、聖書の記述は人間的に判断して「ありそうもない」事が記録されているのであって佐倉氏の主張される物語同志の内容の矛盾などまったくありません。そして「ありそうもない」事を佐倉氏は「事実ではない」と信じ、私は「事実である」と信じているのであり、信じない佐倉氏は矛盾だと主張されているにすぎず、その根拠は「妊娠するのだから年老いていては不可能だ」という極めて人間的な判断でしかないのです。


(1)「1+1=3」のたとえ話について

「このたとえが分からないのか。ではどうしてほかのたとえが理解できるであろうか。(マルコ4:13)」

かみ砕いて説明します。この「1+1=3」のたとえは、つぎのような言明の中にある、問題のとらえかたに対する批判としてあげたものです。

どうしてわざわざ「信頼できない物語に発展」させたのかが佐倉氏の結論からは・・・記録した者の思考的検証に対する説明が抜け落ちている・・・(11月20日)

この物語の年齢に関しての結論が『うっかり見過ごした』という事で纏めてしまって誰が納得するのでしょうか?(12月3日)

つまり、聖書の記述が間違っているかどうかという本来の問題にたいして、わざわざ間違いと分かるようなことを書いたのはなぜか、その動機あるいは思考経過についてなっとくできる説明をせよ、そうしなければ、聖書が間違っていることを認めるわけにはいきませんよ、とこれらの言明は主張しているのです。

こういう問題の捉え方に対して、わたしは、「1+1=3」のたとえを使って、この計算式が正しいかどうかは、「1+1=?」という算数問題に対して「3」という解答をあたえた人物の頭の中の出来事(動機や思考経過)とは無関係に決定されることを示したのです。つまり、聖書の記述が間違っているかどうかは、それを書いた人の動機や思考経過とは無関係に決定されることを示したのです。

それに対して、今回、つぎのように述べられました。これは興味深いものです。

さて、自分で書かれていて全く気付かれないのかと思いますが、「1+1=3」が誤りだということは「1+1=3」ということを検証する以前の問題です。それを信じる信じないという事以前に誤りだという事が数学的に100%証明できるからです。
あきらかに、「1+1=3」のたとえ話がとりあげている当の問題(計算式が正しいかどうかの決定は、この算数問題に解答を与えた人物の動機や思考過程に依存しないこと)にまったく気づいておられませんが、同時に、
「1+1=3」が誤りだということは「1+1=3」ということを検証する以前の問題です・・・誤りだという事が数学的に100%証明できる・・・
という言明から、ある主張が誤っていることを決定する場合、なぜ誤った主張をしたのかという説明、すなわち、誤った記述をした人の頭の中の出来事(動機や思考過程)を考慮にいれる必要は必ずしもないことを事実上告白されていることがわかります。かたくなな心の人でも、認めざるを得ない、わかりやすい譬えをわたしは提示したのです(^^)。

「1+1=3」の正誤を決定するのに、その解答を書いた人の頭の中の出来事(動機や思考過程)は考慮する必要がないように、それとまったく同じように、問題となっている聖書にあきらかな矛盾があれば、なぜあきらかに矛盾とわかることをこの人は書いたのかなどという、書いた人の頭の中の出来事(動機や思考過程)などは考慮せずに、聖書に間違いがあるとが決定できます。

それでもなお、聖書だけは特別で、聖書の場合は、矛盾を示すだけでは不十分で、なぜあきらかに矛盾したことを書いたのか、書いた人の動機や思考過程を、だれもが納得できるように説明しなければ、聖書のまちがいを認めることはできない、と主張し続けるなら、 こういう態度は、やはり、「だだをこねている」と言わざるをえません。


(2)「佐倉氏が自分で矛盾と決めつけているだけです。

わたしが矛盾と無理やり決めつけているのでしょうか、それとも、聖書には間違いがあってはならないという信仰が、矛盾を見えなくしているのでしょうか。もう一度、聖書を読んでみましょう。

創世記 17:1-20:14
アブラハムが九十九歳になったとき、主はアブラハムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい・・・。」アブラハムはひれ伏した。・・・神はアブラハムに言われた。「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう・・・。」アブラハムはひれ付した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」

・・・主はマムレの樫の木のところでアブラハムに現れた。・・・彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、 しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は歳をとり、もはや楽しみが あるはずもなし、主人も歳老いているのに、と思ったのである。主はアブラハムに言われた。「サラはなぜ笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。・・・」サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」

・・・ゲラルに滞在していたとき、アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。その夜、夢の中でアビメレクに神が現われて言われた。「あなたは召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」アビメレクは、まだ彼女に近づいていなかったので、「主よ、あなたは正しいものでも殺されるのですか。彼女が妹だといったのは彼ではありませんか。(中略)わたしは、全くやましい考えも不正な手段でもなくこの事をしたのです」と言った。神は夢のなかでアビメレクに言われた。「わたしも、あなたが全くやましい考えなしにこの事をしたことは知っている。だからわたしも、あなががわたしに対して罪を犯すことがないように、彼女に触れさせなかったのだ。直ちに、あの人の妻を返しなさい。」(中略) アビメレクはそれから、アブラハムを呼んで言った。「あなたは我々に何と言うことをしたのか。わたしがあなたにどんな罪を犯したというので、あなたはわたしとわたしの王国に大それた罪を犯させようとしたのか。(中略) どういうつもりで、こんなことをしたのか。」アブラハムは答えた。「この土地には、神を恐れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。」(中略)アビメレクは羊、牛、男女の奴隷などを取ってアブラハムに与え、また、妻サラを返して言った。「この辺りはすべてわたしの領土です。好きなところにお住みください。」

これらの記述に、夫婦のセックスの営みへの言及を認めるわたしの解釈は、本当に、「どうしてもこの物語を”矛盾させたい”ために・・・解釈してるのであって聖書の記述から大きくはずれて」いるのでしょうか。むしろ、これらの記述に夫婦のセックスの営みへの言及を認めないことこそ、無理な解釈なのではないでしょうか。しかも、これらの記述を夫婦のセックスの営みへの言及であると解釈しなければ、なぜ、アブラハムが妻を「妹である」と偽れば助かると考えたのか、理解できなくなると思います。

100歳と90歳のアブラハム老夫婦が、子供ができるであろうと言われて、二人とも老いぼれており、サラには「月のもの」もなくなっており、夫婦のセックスの営みの楽しみなどない、と笑ったという物語、それと、その物語よりもすこし後に起こる、妻があまりにも美しいために、妻を奪うために自分が殺されてしまうことを恐れて妻を妹と偽ったり、アビメレクがアブラハムの妹だと思って手を出そうとしたときに、神に止められたという物語、--- この二つの物語の間には、容易に調和することのできない矛盾があります。その矛盾が見えないのは、聖書には間違いがあってはならないという目隠しをしているからと考えざるを得ません。

現代の聖書学の研究の成果によれば、これらは、もともと、まったく別の時代の、別の土地の、別の人物達によって書かれたものである、と言われています。もしそうだとすれば、それらの間に矛盾があってもちっともおかしくありません。聖書は古い民族神話や民族伝説の寄せ集めなのですから。


(3)「信じない佐倉氏[の主張]は・・・極めて人間的な判断でしかないのです

わたしの判断はもちろん「極めて人間的な判断」ですが、自分の判断はそうではない(人間的な判断ではない、神的なものである、聖霊に導かれたものである)とひそかに思い込んでいるところに、キリスト教原理主義者の根本的な問題があります。

どんなに「信仰による」と主張しても、どんなに「聖霊の導きによる」と強く信じても、結局は心のなかの自分勝手な思い込みにすぎません。したがって、わたしの立場とキリスト教原理主義者の立場の間にある相違は、一方が「人間的な判断」で他方は「神的な判断」であるというところにあるのではなく、一方は自分の判断が人間的判断であることを自覚しており、他方はそれを自覚していないだけ、というところにあります。

あなたは、兄弟の目にあるおが屑(人間的判断)は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太(信仰も人間的判断であること)に気がつかないのか。

(マタイ7:3)