聖書の間違い

妻を妹と偽る物語の混乱

--- 九十歳の老婆が寝取られる?---

佐倉 哲


自分の妻があまりにも美しいので、妻を奪うために自分が殺されるかもしれないと心配して、妻を妹であると偽る物語が創世記に三回も出てきます。それは、伝承過程において物語の内容が細かい点で異なってゆくという、私たちの日常経験が聖書の場合でも同じであることを示唆しています。特に、アブラハムの物語の場合、サラの歳を考えれば、全く信頼できない物語に発展しています。



三つのよく似た物語

自分の妻があまりにも美しいので、妻を奪うために自分が殺されるかもしれないと心配して、妻を妹であると偽る物語が創世記にあります。問題はこの物語が三回も出てくることです。一度はアブラハムと妻サライがエジプトに入ろうとしたとき。次は同じくアブラハムとサライがゲラルに滞在していたとき。もう一度はアブラハムの息子イサクと妻リベカがゲラルに滞在していたときです。

創世記 12:11-15
エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。「あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくに違いない。どうか、わたしの妹だ、と言って下さい。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。」アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライは宮廷に召し入れられた。(中略)ところがヤーヴェは、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしの妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」

創世記20:1b-14
ゲラルに滞在していたとき、アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。その夜、夢の中でアビメレクに神が現われて言われた。「あなたは召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」アビメレクは、まだ彼女に近づいていなかったので、「主よ、あなたは正しいものでも殺されるのですか。彼女が妹だといったのは彼ではありませんか。(中略)わたしは、全くやましい考えも不正な手段でもなくこの事をしたのです」と言った。神は夢のなかでアビメレクに言われた。「わたしも、あなたが全くやましい考えなしにこの事をしたことは知っている。だからわたしも、あなががわたしに対して罪を犯すことがないように、彼女に触れさせなかったのだ。直ちに、あの人の妻を返しなさい。」(中略) アビメレクはそれから、アブラハムを呼んで言った。「あなたは我々に何と言うことをしたのか。わたしがあなたにどんな罪を犯したというので、あなたはわたしとわたしの王国に大それた罪を犯させようとしたのか。(中略) どういうつもりで、こんなことをしたのか。」アブラハムは答えた。「この土地には、神を恐れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。」(中略)アビメレクは羊、牛、男女の奴隷などを取ってアブラハムに与え、また、妻サラを返して言った。「この辺りはすべてわたしの領土です。好きなところにお住みください。」

創世記26:1-11
アブラハムの時代にあった飢饉とは別に、この地方にまた飢饉があったので、イサクはゲラルにいるペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。(中略)その土地の人がイサクの妻のことを尋ねたとき、彼は、自分の妻だと言うのを恐れて、「わたしの妹です」と答えた。リベカが美しかったので、土地の者たちがリベカのゆえに自分を殺すのではないかと思ったからである。イサクは長く滞在していたが、あるとき、ペリシテ人の王アビメレクが窓から下を眺めていると、イサクが妻のリベカと戯れていた。アビメレクは早速イサクを呼びつけて言った。「あの女は、本当はあなたの妻ではないか。それなのになぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。」「彼女のゆえにわたしは死ぬことになるかもしれないと思ったからです」とイサクは答えると、アビメレクは言った。「あなたは何ということをしたのだ。民の誰かがあなたの妻と寝たら、あなたは我々を罪に陥れるところであった。」アビメレクはすべての民に命令を下した。「この人、またはこの人の妻に危害を加える者は、必ず死刑に処せられる。」

これらの三つの物語は偶然にしてはあまりにもよく似ているので、もともと一つの物語であったものが長い口承伝承の歴史の中で、誰と誰が何処で、というような細かいところで相違が出てきた結果であろう、と考えられます。それが文書に書き留められる頃には三つのバージョンが出来上がっていたのでしょう。そして、この中でもっとも信頼できないのはアブラハムの物語です。なぜなら、この物語が信頼性を持つためには、妻が若く美しいことが前提とならなければならないのに、アブラハムと妻サラがゲラルに滞在したときサラは90歳の老婆だったのです。そもそも、アブラハムが神に召命されて聖書に登場するとき、彼はすでに75歳でありサラ(サライ)は65歳でした(創世記 12:4)。しかも、ゲラルでの事件が始まる直前、神は100歳になったアブラハムと90歳のサラの間に子どもが生まれることを告知するのですが、そのとき、アブラハムもサラもこれを笑うのです。
創世記 17:15-17
アブラハムはひれ付した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男 に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」。

創世記 18:11-12
サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、 しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は歳をとり、もはや楽しみが あるはずもなし、主人も歳老いているのに、と思ったのである。

美しい妻が奪われ、そのため自分が殺されるかもしれない、という心配から妻を妹と偽るゲラルでの事件は、この神の告知のすぐ後(創世記20:1b-14)に起きるのです。そのとき彼らが「月のものがとうになくなっていた」とか「もはや楽しみがあるはずもなし」とつぶやく100歳と90歳の老夫婦であったことを念頭におけば、これがいかに滑稽な物語になってしまうかがわかります。 


結論

自分の妻があまりにも美しいので、妻を奪うために自分が殺されるかもしれないと心配して、妻を妹であると偽る物語が創世記に三回も出てきます。それは、伝承過程において物語の内容が細かい点で異なってゆくという、私たちの日常経験が聖書の場合でも同じであることを示唆していまが、特に、アブラハムの物語の場合、サラの歳を考えれば、全く信頼できない物語に発展しています。