はじめまして。

私、幸福の科学会員の丸山と申します。 佐倉さんのホームページを拝見しまして、佐倉さんが、幸福の科学に対し、否定的な見解をとられており、会員の一人として、残念な気持ちから、メールを差し上げました。

今回は、「来訪者の声」の中で、2001年4月18日の松本和幸さんの質問に対する佐倉さんの2001年5月5日のお答えについてコメントさせて頂きたいと思います。

佐倉さんのお答えは、

わたしの答えは簡単明瞭(誰もわからないことを知っていて行う確信犯たる大川隆法さんの「でまかせ」か、そうでなければ精神の病による「妄想」)ですが、ここはやはり幸福の科学の方からのお答えを拝聴したいものです。
ということでした。

確かに、霊言というものは、確証することができません。しかし、だからといって、「でまかせ」や「妄想」ということとは限りません。いつの時代にも霊能者と称する方は大勢いましたし、身近にも、臨死体験や、霊的現象を通じてあの世の世界を感じている人は少なくないはずであります。

根源の神という、天地万物を創造された偉大なる存在があり、また、地上に生命を持って、愛に生き、人々を救ってきた立派な方々が地上を去ってあの世、霊天上界という世界から私達を見守っておられるという事実、これをまず悟らねばなりません。人間の知力でもって計ることのできない、「根拠を示せ」などという小賢しい意見など消し飛んでしまうほどの天使の世界というものが存在するということです。

偉そうなことを言いましたが、かくいう私も、霊の世界というものは明確には信じることはできませんでした。しかし、私には真実を知りたい、という欲求がありました。

第一点、人は死んだらどうなるか。第二点、人は何のために生きるのか、人生の目的とは何か。第三点、真実の幸福とは何か。以上であります。

この疑問に明快に答えてくれたのが、「幸福の科学」の教えでした。その教えは、私にとっては奇蹟としか思えないものでした。その奇蹟とは、まず霊言集の存在。かなりの数の歴史上の偉人達が、天上界から私達 にメッセージを下さっているという事実、短期間にこれだけの書籍を出すというのは、 はっきりいって人間業ではありません。その内容も私にとっては、吸い込まれていきそうなくらい素晴らしい ものでした。また、幸福の科学オリジナルの教えである一連の書籍も多数あり、また心に染み込む教えがぎっしりつまっています。

とても「でまかせ」や「妄想」で書ける内容ではありません。私の結論として、「幸福の科学における霊言は、確証できるものではありませんが、それが真実であるとしか思えないほどの質と量を誇っており、その内容は人々を幸福に導く教えに満ちている。」ということです。

ぜひ佐倉さんのご意見をお伺いしたいと思います。また、この文章を「来訪者の声」として取り上げてくださり、他の来訪者の方々のご意見も伺えたらうれしく思います。


1.妄想とでまかせ

霊言というものは、確証することができません。しかし、だからといって、「でまかせ」や「妄想」ということとは限りません。
事実かどうかを、本当は知らないくせに、まるで知っているかのごとく思い込み、振る舞うことを「でまかせ」、「妄想」というのです。


2.「霊能者」がペテン師か妄想家にすぎないことの証明(その1)

いつの時代にも霊能者と称する方は大勢いましたし、身近にも、臨死体験や、霊的現象を通じてあの世の世界を感じている人は少なくないはずであります。
いつの時代にもペテン師や妄想家はいるものです。

そして、「霊能者」と称する人々は、すべてペテン師か妄想家であることは、次のように証明することができます。

前提1 わたし(佐倉)は超能力を持っていない。(経験的事実)
前提2 人間の能力はだれでも同じようなものである。(経験的事実)
結論  ゆえに、超能力を持っていると豪語する「霊能者」は妄想家かペテン師である。


3.「霊能者」がペテン師か妄想家すぎないことの証明(その2)

「霊能者」であると自称する人々の霊界報告の内容は、それぞれ相互に矛盾しています。つまり、一方の報告が正しければ他方の報告は必ず間違っていることになるような、矛盾した報告がたくさんあります。このことは、「霊能者」が語っているものは、(霊界)事実に関する報告ではなく、各自の勝手な思い込みに過ぎないことを示しています。


4.「霊能者」がペテン師か妄想家すぎないことの証明(その3)

霊界に関することなら、それがどんなでたらめであろうと、上記のような矛盾がないかぎり、わたしたちは間違っていることを証明することはできませんが、「霊能者」の霊界報告は、しばしば、地上の歴史的事件を語ることがあります。そして、地上の事件なら、わたしたちはその報告が正しいかどうか調べてみることができます。そこで、わたしは、さしあたり、大川隆法さんの霊示と「20世紀最大預言者」と言われるエドガー・ケーシーの予言を調べてみました。予想していた通り、かれらの歴史的事件に関する霊言は間違っていることがあきらかになりました。


5.幸福の科学の教え(その一)

しかし、私には真実を知りたい、という欲求がありました。第一点、人は死んだらどうなるか。第二点、人は何のために生きるのか、人生の目的とは何か。第三点、真実の幸福とは何か。以上であります。この疑問に明快に答えてくれたのが、「幸福の科学」の教えでした。
嘘でしょう。本当にあなたが「真実を知りたい、という欲求」があって、幸福の科学が、たとえば、「人は死んだらどうなるか」という「疑問に明快に答えてくれた」というのが事実であるなら、あなたは、いま、「人は死んだらどうなるか」について知っているのでなければなりません。「真実を知りたい、という欲求に・・・明確に答えてくれた」はずだからです。しかし、あなたは、「人は死んだらどうなるか」について幸福の科学が主張していることを、単に信じただけであって、かれらの主張が事実であるかどうかを知ったわけではないのです。

本当に、あなたが、幸福の科学の死後の世界に関する主張が事実であることを知っているのであるならば、あなたは、どのようにして、かれら主張が事実であることを知ったのか、それを述べなければなりません。しかし、あなたも、大川さんや他のすべての幸福の科学の信者と同じように、自分たちの信じている事柄の内容が事実であることの根拠を一つもあげることができません。だから、あなたがたの主張が知識ではなく思い込みすぎないことがあきらかなのです。


6.幸福の科学の教え(その二)

その内容も私にとっては、吸い込まれていきそうなくらい素晴らしいものでした。・・・その内容は人々を幸福に導く教えに満ちている。
「心に染みる」とか書籍の数が多いなどというようなことから、幸福の科学の教えが真理であるという命題は、論理的に帰結しません。教えが、「素晴らしい」(自分救いにとって都合がよい)とか、人を「幸福にする」、というようなことは、その教えが真理であることの根拠にはなりません。「貴方はガンではありません」とか「あなたの死んだお子さんはあの世で幸せに暮らしています」といった嘘が人を幸福にするように。
ある教義が人を幸福にする、有徳にする、だからそれは真理である、というほど安易に考える者はいない。・・・幸福や道徳は論拠とならぬ。ところが、思慮ある人々ですらも、不幸にし邪悪にすることが同様に反対証明にはならぬ、ということを忘れたがる。たとえ極度に有害危険なものであろうとも、それが真であることを妨げはしない。

(ニーチェ、『善悪の彼岸』竹山道雄訳)

もし、あなたが本当に「真実を知りたい、という欲求」があったのなら、デタラメな大川さんの教えをそんなに不用意に受け入れることはなかったでしょう。しかし、あなたは、真実ではなく、むしろ、幸福(あなたの救いにとって都合がよい心地よい教え)を求めていたのです。真実を知ることは人を幸福にするとは限らないからです。真理が「素晴らしい」ものであるという根拠も理由もありません。真理が「極度に有害危険」で、人を不幸・不安におとしめるものである可能性を否定する根拠はどこにもありません。

したがって、本当に真実を欲するなら、自分に都合の悪い情報を受け入れる覚悟をしなければなりません。その逆に、幸福を求めるなら、当然のことながら、真実を求めること(自分に都合の悪い情報も受け入れること)を止めなければなりません。幸福を求める人は真実を知ることを犠牲にしなければなりません。

大川さんの本を読んでみると、そのどれをとっても、「これはひどい、あまりにも低級だ」、と思わざるを得ないものばかりです。その人生論はPHP本程度のありきたりのものだし、その宇宙論は「3億年前に神が円盤に乗って地球にやって来た」といった具合のトンデモ本からの借り物。仏教やキリスト教や人類の歴史に関する知識はきわめて程度が低く間違いだらけです。したがって、わたしには、あんなくだらない本を読んで「素晴らしい」と感じる人がいるのが不思議です。しかし、人それぞれです。そういう人もいるのでしょう。

想像してみるに、おそらく、ダイヤモンドやルビーなどの本物の宝石を一度も見たことのない人が、そのへんにころがっている石ころをみて「世界一美しい」と感動するようなものなのでしょう。仏教やキリスト教や哲学などについて無知な人でなければ、大川さんの本に感動することなど、絶対にできないと思われます。本サイトに寄せられる幸福の科学の信者の方からのお便りはまさにそのことを検証しています。

幸福になることが幸福の科学の信者のようになることであるとしたら、まことに、わたしたちは、幸福にはなりたくないものです。