佐倉さま
一年前に投稿したふなりゅうです
レスされてたのを今日見つけましたのでお返事させていただきます
いろいろなことを人間が信じるのは自由ですが、たとえ信じても、おのれの信仰を疑ってみることの大切さを奪おうと試みるところに、大川さん(やその他多くの教祖たち)の「教え」の特徴があります。そして、疑うことを許されない思想を「主体的」に選ぶのは、自由の自殺ではありませんか。「自由であると思い込んでいる奴隷」ではありませんか。(佐倉、「ふなりゅうさんへ 99年12月6日」)
「信仰を疑ってみることの大切さ」という変わった言葉を言われてますが、何故それが「大切」だとお考えか・・・?
信仰は疑った瞬間に「信仰」ではなくなる
そんなことも分からないのですか?貴方は。
貴方はキリスト教のユダをどのように評価されてるかは存ぜぬが、彼があのような行為をしたのは、最後に師イエスを疑った、そして師を試してみたかった弱さゆえの行為だと思います
[疑う大切さを奪ってしまうところに、]大川さん(やその他多くの教祖たち)の「教え」の特徴があります。 (同上)
馬鹿なことを言うのは辞めていただきたいです。正しいと思って説いてる教えを疑えなんて言ったら、なんのために教えを説いてるか意味が無いじゃないですか?正しいと思うからこそ、信じて実践してみてください、そして幸福になったかどうかを「自分の心という主体」で認知してくださいってことじゃないの?
そのときに初めてその教えの価値が自分でわかるんじゃないのかな?そのときに幸福感が増えなかったら、その教えは捨てればいいじゃないの?はじめから疑っていたら宗教や信仰のいみなんて一生わからないと思いますよ。
人間と動物の違いを揚げるならそれは人間とは信仰を持っている存在だということだと思います 最近の日本には獣が増えてるようですが・・・
「信仰」について佐倉氏は如何なるお考えをお持ちでしょうか?
ふなりゅう
【疑うことの大切さ】
「信仰を疑ってみることの大切さ」という変わった言葉を言われてますが、何故それが「大切」だとお考えか・・・?地下鉄サリン事件で、サリンをまいたひとりである林郁夫は、獄中の書『オウムと私』(文芸春秋)の中で、彼らがなぜ麻原にしたがったのかを、このように説明しています。
麻原は自分の指示に百パーセント従うのが「帰依」だと考えていました。・・・当時の私からすると、麻原を信じ、百パーセントの帰依をしているつもりだったのは、まちがいのないことです。(340頁)「麻原の世界」の住人であった私たちは、麻原の指示をどのようにしても「断る」ようなことはありえなかったのです。私たちは、自分の信じているものに対して不誠実ではありませんでした。(401頁)
人を殺すという教えでさえも、疑うことの大切さを知らなければ、それはそのまま実行されます。疑うことの大切さを知らなければ、すべてが正当化されてしまいますから、人は救われることがありません。疑うことだけが人を自由の世界へと救い出すのです。
【キリスト教の犯罪】
貴方はキリスト教のユダをどのように評価されてるかは存ぜぬが、彼があのような行為をしたのは、最後に師イエスを疑った、そして師を試してみたかった弱さゆえの行為だと思いますオウムの犯した犯罪は、人類史においてキリスト教の犯した犯罪に比べれば、ほとんど取るに足らないものです。異端者を火あぶりにし、非キリスト教国家を侵略したこの宗教ほど、沢山人を殺した宗教はありません。もっとユダのような疑う者が沢山いたなら、人類はこれほどの悲惨を経験することはなかったことでしょう。(「殺せ!と神が命じるとき」参照)
【「わたしを疑え」、と教えるのが教師としての正しい態度】
馬鹿なことを言うのは辞めていただきたいです。正しいと思って説いてる教えを疑えなんて言ったら、なんのために教えを説いてるか意味が無いじゃないですか?「わたしを疑え」と教えない教師は、教師として失格です。教師は誰でも、正しいと信じていることを教えますが、「わたしを疑え」と教えない教師は、<もしかしたら自分は間違っているかもしれない>という最低限の知識さえ持っていないのですから、教師として失格なのです。
わが弟子たちよ、われ今よりは、独り行んとする! なじんらもまた独り行け! かくわれは希う。 まことに、われなんじらに勧める。われより去れ。ツァラトストラより自己をふせげ! さらになすべきは、ツァラトストラを恥よ! われはなんじらを欺いたかも知れぬではないか。 認識の人間は、ただにその敵を愛するのみにはあらず、さらに、その友をも憎みうる者たるを要する! ついに門下としてのみ已むは、よく師に報ずるの所以ではない。しかるに、いかなればなんじらは、わが花冠を取り去ろうとしないのであるか? なんじらはわれを崇拝する。さあれ、なんじらの尊崇がひとたび覆ったときには如何であるか! 心せよ、うち倒れる神像によって、なんじらが砕かれざらんことを! なんじらは言う、ツァラトストラを信ずる、と。されど、そもツァラトストラが何であるか! なんじらはわが信徒である。されど、そも一切の信徒が何であるのか! なんじらは未だ自己を求めざる時に、われに遭遇した。すべての信徒はかくなす。この故にこそ、一切の信仰はかくも見すぼらしい。 今や、われなんじらに命ずる。われを棄て、なんじら自ずからを発見せよ、と。かくて、なんじらすべてがわれを否定したとき、われはなんじに復帰するであろう。 まことに、同胞よ、その時は、われはわが喪失せる者たちを、異なれる眼をもって探索するであろう。その時は、われなんじらを、異なれる愛を持って愛するであろう。「われはなんじらを欺いたかも知れぬではないか」と教える教師こそ優れた教師の条件です。大川さんは教師として失格です。(ニーチェ、竹山道雄訳『ツァラトストラはかく語りき』)
【優れた宗教とダメ宗教】
はじめから疑っていたら宗教や信仰のいみなんて一生わからないと思いますよ。ブッダは「信仰を捨てよ」と教えました。
ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。ブッダの弟子ならば、信仰を捨てなければなりません。なぜでしょうか。詳しくは「ブッダの沈黙」を参照してください。(スッタニパータ 1146、中村元訳)
仏教最古の学派テラワーダ(上座部)のスマナサーラ長老も、このブッダの教えについて、最近の著書で次のように述べておられます。
仏教には信仰はありません。・・・[仏教では]信仰のような曖昧模糊としたものではなく知恵による確信に満ちた生き方に自分を必ず変えていくのです。つまり、信仰を捨てて知恵によって生きることことこそがブッダの教えです。(アルボムッレ・スマナサーラ、『恐れることは何もない』、泉書房、264頁)
大川さんは逆に知恵を捨てて、大川さんを盲目的に(つまり疑うことなく)信じることが一番大切だ、と教えています。ここに優れた宗教とダメ宗教の違いがあります。
【幸福感は真理の尺度にならない】
正しいと思うからこそ、信じて実践してみてください、そして幸福になったかどうかを「自分の心という主体」で認知してくださいってことじゃないの?そのときに初めてその教えの価値が自分でわかるんじゃないのかな?そのときに幸福感が増えなかったら、その教えは捨てればいいじゃないの?そもそも、人間はいかなる状況にあろうとも「幸福である」とも「不幸である」とも言えますから(「幸福の追求」)、幸福感などというものは、どんな長さでも「1メートル」になってしまう定規のようなものであって、いかなるものの尺度にもなりません。
百歩譲って、それが何らかの尺度になるとしても、<教えが正しいか否か>という認識的問題に関して<幸福にしてくれるかどうか>などという実存的な尺度を持ってくるのは、体重を温度計で量るような致命的なミスマッチの間違いをおかしています。それはまた、裁判官が、真実かどうかという尺度ではなく、どちらが沢山の賄賂をくれるかという尺度によって「正否」を判断するようなものです。
たとえば、ウソは人を幸福にします。愛する子どもを失って悲しみにくれる親にとって「あなたのお子さんはあの世で生きていて、また会うことが出きるのです」というウソほど、その親の幸福感を増大させるものはありません。しかし、「幸福感を増大させるからそのウソは正しい」などとは言えません。幸福感は真理の尺度になりません。
政治家の賄賂、企業や役所の情報隠し、旧石器発掘ねつ造、等々・・・日本をダメにしているすべての根本的な原因は、真実か否かを知ることよりも、幸福感を増減してくれるかどうかを尺度にする人間があふれているところにあります。幸福の科学は、そういうダメ人間を大量生産することによって、ますます日本をダメにしています。
見たこともない世界について、まるで見てきたかのように振る舞う大川さんの言動は、あの旧石器発掘ねつ造とまったく同一次元の問題と言えるでしょう。かの発掘氏はそのねつ造によって「神の手」と呼ばれたそうですが、大川さんもそのねつ造によって「神様」と呼ばれています。真実を凝視する勇気より、幸福感の増大を価値観の中心に置く人生観が、彼らをダメ人間(「神」と呼ばれる人間)にしたのです。
【疑うことだけが人間を自由にする】
人間と動物の違いを揚げるならそれは人間とは信仰を持っている存在だということだと思います・・・魚は、目の前にぶら下がる、幸福感を増大してくれそうな餌に食らいついて、人間のえじきになります。このことを知っている新興宗教は、幸福を人々の目の前にぶら下げて、人々を虜にします。そして、「牢の中の方が幸福なんだ」というウソを疑うことを許されていない虜となった人たちは、喜々として精神的奴隷に甘んじます。
だから、疑うことだけが、人間を自由にするのです。
【信仰とは】
「信仰」について佐倉氏は如何なるお考えをお持ちでしょうか?信仰とは、ほんとうは知りもしない事柄について、まるで知っているかのごとく、真実であると思い込むことです。信仰とはそれゆえ自己欺瞞のことです。「不幸になってはいけない、幸福にならなければいけない」という強迫観念にいつも追いつめられている人々が、自らをこのような自己欺瞞の世界に追い込むのです。
信仰を捨てるということは、何も知らないのにまるで知っているかのごとく振る舞わなければならない自己欺瞞の苦しみから、ひとが解放されることです。ひとが、<幸福な人生>より、たとえ不幸になっても真実を直視する<高貴な人生>を選択するとき、この解放への道が開けてくるのです。
これまで人類は政治的奴隷状態からみずからを解放してきましたが、21世紀は宗教的奴隷状態から人間を解放する時代が始まることでしょう。