"The Buddhist schools differed among themselves to a great degree; they have, however, one thing in common -- the denial of substance (atman)."「各仏教学派はその教義においてそれぞれ大いなる相違を示しているが、それでも一つの共通点をもっている。それはアートマンの否定である。」
(T.R.V. Murti, The Central Philosophy of Buddhism, p26)
しかし、仏教は、たとえば、「アートマンは有る」というウパニシャッドの主張に対して、同じ次元で「アートマンは無い」と単純に言い返したのではありませんでした。仏教の批判は、ウパニシャッド(やその他の宗教各派)の主張が依って立つ土台そのものに向けられた、もっと根本的なものだったからです。
最も古層に属する原始仏典のひとつ(スッタニパータ、4章と5章)には、ブッダの宗教観としてつぎのような洞察が残されています。
或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか? かれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。(903)ブッダが宗教に見たものはドグマへの執着であり、その愚かさです。そのために、ブッダは、ある特定の種類の(形而上学的)質問に対しては沈黙したと仏典は記しています。かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。(904)
もしも他人に非難されているがゆえに下劣であるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。(905)
(真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それゆえに、諸々の論争を超越している・・・。(906)
(中村元訳、『ブッダのことば スッタニパータ』、岩波文庫、197〜198頁)
ブッダの沈黙は宗教や哲学の形而上学的論議そのものに対する批判です。「人が死後も存在して生き続けるかどうか」と言う質問は、ブッダが答えることを拒否した14(あるいは10)種類の形而上学的質問のうちの一つだったのです。それは、「毒矢のたとえ」や「ヴァチャとの対話」などの経に残されています。
ひところ世尊は、サーヴァッティの郊外、ジェータヴァナのなかのナータビンディカの園におられた。そのとき、尊者マールンキャプッタは人影のないところへ行って静思していたが、その心に次のような考えが起こった。「これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。すわなち --- 世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるか、魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであるとか、人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか…、これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。世尊がわたしに説かれなかったということは、わたしにとって嬉しいことではないし、わたしにとって容認できることでもない。だからわたしは世尊のところへ参って、この意味を尋ねてみよう……。もし世尊がわたしのために、これらのことを説かれないようなら、わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう。」(中略)このように、ブッダは「人は死後にもなお存するかどうか」というような種類の形而上学的問いには答えなかった、と仏典は記録しています。そのような問いに対する見解はドグマ(独断)に過ぎないからです。「マールンキャプッタよ、わたしはおまえにそのようなことを教えてやるから、わたしのもとにきて修行せよ、と言ったことがあるか。」
「師よ、そのようなことはありません。」
「マールンキャプッタよ、わたしはそのようなことを教えてやると言ったこともないのに、愚かにも、おまえはわたしがそのように説くことを要求し、そのようの説くことをしないわたしを拒もうとしている。(中略)マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。
マールンキャプッタよ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。わたしが説くことは説くと了解せよ。」 以上のことを世尊は語られた。尊者マールンキャプッタは歓喜して世尊の教説を受け入れた。
(「毒矢のたとえ」、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バックス、473〜478頁)
かようにわたしは聞いた。あるとき、世尊は、サーヴァッティの祇園精舎にあらわれた。その時、ヴァッチャという外道の行者が、世尊を訪ねてきた。二人は友誼にみち礼譲ある挨拶を交わしてから、さて、彼は世尊に問うて言った。 「世尊よ、あなたは、世界は常住であるとおもわれるか。これのみが真であって、他は虚妄であると思われるか。」 「ヴァッチャよ、わたしは、そうは思わない。」 「では、世尊は、世界は常住でないという意見であるか。」 「そうではない。」 ・・・(中略)・・・ さらにヴァッチャは、霊魂と身体とは同一であるか別であるか、人は死後もなお存在するか存しないか等のことについて、世尊がいずれの意見であるかを問うた。だが、世尊は、そのいずれの意見をもとらない旨を答えた。かくて、ヴァッチャは、さらに問うて言った。 「いったい、世尊は、いかなるわざわいを見るがゆえに、かように一切の見解をしりぞけられるのであるか。」 すると世尊は、かように教えて言った。 「ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]に対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
(マッジマニカーヤ 中部経典72、増谷文雄訳「火は消えたり」『仏教の根本聖典』、大蔵出版、240〜242頁)
「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」「真実として捉えられるものではない」というのは、それが実証できない主張、つまり単なる空想的独断に過ぎないこと、を意味しています。(マッジマニカーヤ 中部経典22)
このように、「アートマンは有る」というウパニシャッドの主張に対して、ブッダは、同じ次元で「アートマンは無い」と単純に言い返したのでは有りません。現代仏教学者が、ときどき、初期の仏教は決して「アートマンは存在しない」と主張したのではないというのは、この意味からです。
初期の仏教では決して「アートマン(我)が存在しない」とは説いていない。・・・アートマンが存在するかしないかという形而上学な問題に関しては釈尊は返答を与えなかったといわれている。ブッダの批判は、「アートマンは有る」とか「アートマンは無い」という主張が依って立つ土台そのものに対する、もっと根本的な批判だったのです。つまり、ブッダは、「アートマンは有る(無い)」という主張は間違っていると批判したのではなく、そのような問答は無意味であると批判したのです。ここに仏教のアートマン批判のもっとも顕著な特徴があります。(中村元、『仏教語辞典』「無我」、1316頁)
このような、死後も生残る永遠の魂としてのアートマンに対する仏教の立場は、とくに人の死の問題に関する仏教の態度に典型的に表れています。たとえば、キサー・ゴータミーの美しい物語はそのもっとも有名なものだと言えるでしょう。
キサー・ゴータミーという若い母親がいた。その小さな赤ん坊が死んで、彼女は悲しみのあまり、半狂乱のていであった。なんとか赤ん坊を生き返らせて欲しいといって、会う人ごとに訴えた。人々は彼女に同情し、近ごろ評判の高いゴータマ・ブッダと言う人がいるから、そこへ行って相談するがよい、とすすめる。なんとか赤ん坊を生き返らせるような魔力を、その人は持っているかもしれない・・・。ブッダは、死人を生き返らせる奇跡も行なわず、「死んでも魂が生き残る」などという慰めの言葉も語りません。こうして、「生まれたものどもは、死をのがれる道がない。老いに達し、そして死ぬ。じつに生あるものどものさだめは、まさにこのとおりである。・・・だから、師が教えられたように、人が死んでなくなったのを見るとき、かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ、とさとって、嘆き悲しみを捨て去れ。(スッタニパータ、575〜590)」というのが仏教の死に関する考えでした。キサー・ゴータミーは希望に燃え、死んだ赤ん坊を抱いて、仏陀が滞在していた郊外の森へと急いだ。そして同じように訴えた。ところで仏陀の答えは以外であった。「それはいかにもお気の毒だから、わたくしが赤ん坊を生き返らせてあげよう。・・・村へ帰って、芥子のみを二、三粒もらってきなさい。」芥子の実はインドの農家ならどこにでもある。その実を使い、何かの魔術によって死者が生き返るのであろう。そう思って、キサー・ゴータミーが走り去ろうとするとき、その背後から仏陀が声をかけた。「ただし、その芥子粒は、いままで死者を出したことのない家からもらってこなければならない。」
半狂乱のキサー・ゴータミーには、まだ仏陀の言葉の意味が分からなかった。こおどりして喜んで、村にとって返した彼女に、村人は喜んで芥子粒を提供しようとする。しかし、第二の条件に対しては、「とんでもない。うちでは父や母の葬式もしたし、子供の葬式も出した」というような返事しか聞かれなかった。
家から家へかけめぐるうちに、キサー・ゴータミーにも少しずつわかってきた。ほとんど村中をまわって、仏陀のいるもとの森に帰ってくるころには、彼女は狂乱も消え去り、すがすがしい気持ちになっていた。赤ん坊はついに生き返りはしなかったのだが。
(長尾雅人、「仏教の思想と歴史」『大乗仏典』、中央公論社、22〜23頁)
このようなブッダの死の問題に対する実例をみると、わたしたちは、さきほど引用したブッダのマールンキャプッタへの言葉がより良く理解できます。
マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないという考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。(再出)形而上学的空想的存在(アートマン、死後も永遠に生きつづける魂)を想定しないで人間苦を超克する方法 -- ブッダはそれを教えたのでした。
わたしたちは、「キサー・ゴータミーの物語」のような仏典から、ブッダの弟子たちがブッダのどこに魅かれていたのか垣間見ることができます。つまり、ブッダは奇跡を起こす驚愕すべき超人的宗教家でもなく、霊界の秘密を知っていると大言壮語する神秘的宗教家でもなかったこと、まさにそのことがブッダの魅力であり、人々がそれに感動したことをこのような物語からわたしたちは想像することができます。
このような、ブッダの教えに感動した人々の印象は、つぎのような定型句としても、じつは数多くの経典に残されています。よく知られているように、経典は「このようにわたしは聞いた(如是我聞)・・・」と言うふうに始まるのが決まりですが、それらの経はしばしば、つぎのようなブッダの教えに感動する聞き手の言葉で終わっています。
素晴らしいかな大徳、素晴らしいかな大徳、たとえば、倒れたるものを起こすがことく、覆われたるを現すがごとく、迷えるものに道を示すがごとく、あるいは、暗闇の中に燈火をもたらして、「眼あるものは見よ」というがごとく、世尊はさまざまな方便をもって法を示したもうた。この定型句によれば、ブッダの教えは、それを聞いた人々にとって、「眼あるものは見よ」というがごときだったと言うのです。それがブッダの教えを聞いた人々の印象だったのです。つまり、ブッダは、人知でははかりえない神秘的なことを権威的態度で「信じよ」と説いたのではなく、ここに来て自分の目で確かめよ、と眼前で示すがごとく、はっきりと知ることのできるものであった、と言うのです。同じような定型句として、また、次のようなものもあります。(増谷文雄、『新しい仏教のこころ』、講談社、71頁)
教法は世尊によりて善く説かれた。すなわち、この教法は、現に証せられるもの、時を隔てずして果報あるもの、来り見よというべきもの、よく涅槃に導くもの、知者がそれぞれに自ら知るべきものである。ブッダの教えは、「現に証せられるもの」、つまり、現実の世界で実証できるものであり、「時を隔てずして果報あるもの」、つまり、未来の果報を約束するものではなく、今ここでその結果が現れるものであり、また、上記と同じように、「来り見よというべきもの」、つまり、ここに来て自分の目で確かめよ、と眼前で示すがごとく、はっきりと知ることのできるものであった、と言うのです。それが、ブッダの教えに感動した人々の印象でした。このようなブッダの教えに感動した人々の印象は、神秘的形而上学的な問題に対するブッダの沈黙という態度とまったく一致するものです。(同上、74頁)
ところで、ブッダの神秘主義的形而上学的事柄に対する態度に関するある興味深い事件がブッダの時代におきています。神秘主義的形而上学的事柄に対して沈黙したのは、実は、ブッダだけではありませんでした。そのころ、サンジャヤという名の懐疑論者が似たような主張をしています。
サンジャヤ(Sanjaya Belatthiputta)は「来世が存在するか?」という質問を受けたときに、次のように答えた。『もしもわたくしが「あの世は存在する」と考えたのであるならば、「あの世は存在する」とあなたに答えるであろう。しかしわたくしはそうだとは考えない。そうらしいとも考えない。それとは異なるとも考えない。そうではないとも考えない。そうではないのではないとも考えないと』と。その他、「善悪業の果報は存在するかどうか?」などというような形而上学的問題に関しても、かれは同様にことさら意味の把捉され得ないあいまいな答弁をして、確定的な返答を与えなかったという。事件というのは、この懐疑論者サンジャヤの弟子であったサーリプッタ(Sariputta 舎利佛)とモッガラーナ(Moggallana 目建連)が、同門の250人を引き連れてブッダに帰依したという事件です。サーリプッタもモッガラーナもブッダのもっとも重大な弟子になり、しばしば仏典に登場します。とくにサーリプッタはブッダの弟子の中でもっとも知的で頭が切れたと言われており、後年の年老いたブッダのかわりにしばしば弟子たちの前で説法します。「わたしは疲れたからすこし横になって休もうと思う。おまえが私の代わりに話をしてくれ」と言うブッダに代わって、サーリプッタはアーナンダらとともに、しばしば説法の仕事を勤めます。(中村元、『インド思想史』、45〜46頁)
注目すべきことは、なぜサーリプッタやその他の250人もの懐疑論者サンジャヤの門弟たちがブッダの教えに魅かれたのか、というところです。あきらかに、その理由の一つは、ブッダが神秘主義的形而上学的問題に対して沈黙をまもっていたことに関連しています。それが懐疑的な人々を同感させるものだからです。つまり、懐疑論者サンジャヤの弟子たち250人がブッダに帰依したという歴史的事件は、ブッダが神秘主義的形而上学的問題に対しては沈黙したのだという仏典の記述が事実であったことの状況証拠となっています。
もちろん、ブッダは形而上学的問題に対しては沈黙しましたが、形而下的問題、つまり、人間が経験し観察できる事柄に関しては、いくつかの重要で特徴のある主張をしました。「わたしが説かないことは説かないと了解せよ。わたしが説くことは説くと了解せよ。」(再出)ブッダは、このように、主張できることと主張できないことを明確に区別していた、と考えられます。そして、サーリプッタたちは、ブッダが語るべきでないことに沈黙を保っていたことに同感しただけでなく、経験し観察できる世界に関して語られたブッダの主張に深く同意するところがあったに違いありません。仏典はそのあたりの事情についても、少なからず記録を残しています。
すなわち、サーリプッタはあるとき、托鉢をするブッダの弟子アッサジに出会い、「あなたの師は、いかなる説を有し、何を説かれるのか」と訪ねます。アッサジは「わたしは出家してまだ日が浅く、新参であるから、その教えを深く説くことはできない。」と答えますが、サーリプッタは、少しでもいいから、その教えとするところを語ってくれと求めます。そこで、アッサジは次のように、たどたどしく語ったと言います。
もろもろの法は因によって生ずる。それだけ聞くだけで、サーリプッタは、アッサジの師(ブッダ)がいかなる思想の持ち主であるかを理解した、と仏典は記しています。ここでアッサジがサーリプッタに語ったのは無常と縁起の思想です。つまり、私たちの経験するもの、観察できるもの、すべてはさまざまな原因や条件に依存して生まれかつ消滅する --- そういう思想です。サーリプッタはすぐさまこのことを親友モッガラーナに語り、しばらくして、250人の門弟をつれて、サンジャヤの反対を押し切って、ブッダに帰依します。懐疑論者たちがブッダへ魅せられたというこの事件は、ブッダが神秘主義的形而上学的問題に対して沈黙をまもっていたことを裏付ける事件であったといえます。
如来はその因を説きたもう。
もろもろの法の滅についても、
如来はそのように説きたもう。(増谷文雄訳、『仏教の根本聖典』、57頁)
ブッダは、サーバッティという所に滞在していたとき、「一切」とはなにか、次のように教えたと記述されています。
みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞いて下さい。「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。後代の仏教の一部では、インドの土着宗教の世界観を取り入れて煩雑な宇宙観を持つようにもなりますが、ブッダの世界観が本来どんなものであったかをこの経典は示しています。誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故でしょうか。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。(サンユッタニカーヤ 33.1.3)
このような神秘的形而上学的な問題に対するブッダの態度は、当然ながら、そのまま神々に対する信仰の否定として現れます。ブッダはしばしば「信仰を捨てよ」と説きました。たとえば、
[ブッダは言った。]ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。(スッタニパータ 1146、中村元訳)というような言葉は、もっとも旧い層に属する仏典に残されています。原始仏典研究の中村元氏も、仏教はもともと信仰なるものを説かなかった、と語られています。
「信仰を捨て去れ」という表現は、パーリ仏典のうちにしばしば散見する。釈尊がさとりを開いたあとで梵天が説法を勧めるが、そのときに釈尊が梵天に向かって説いた詩のうちに「不死の門は開かれた」と言って、「信仰を捨てよ」(pamuncantu saddham)という(Vinaya, Mahavagga, I, 5, 12)。この同じ文句は、成道後の経過を述べるところに出てくる(DN, XIV, 3 ,7)……。最初期の仏教は信仰なるものを説かなかった。 (中村元『ブッダのことば』p.430-431)そのため、神々への祈願や呪文、犠牲や祭祀、運命判断、胡麻たき、まじないなど、すべて神秘的な力に預かろうとする宗教的行為は、原始仏典の中ではことごとく否定されています。
たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に大きな石を投じたとするがよい。そのとき、そこに大勢の人々が集まり来たって、「大石よ、浮かびいでよ。浮かび上がって、陸に上れ」、と祈願し、合掌して、湖のまわりを回ったとするならば、汝はいかに思うか。その大いなる石は、大勢の人々の祈祷合掌の力によって、浮かびいでて陸にあがるであろうか。・・・たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に、油のつぼを投じたとするがよい。そして、つぼは割れ、油は水の面に浮いたとするがよい。そのとき、大勢の人々が集まり来て、「油よ沈め、油よ沈め、なんじ油よ、水の底に下れ」、と祈りをなし、合掌して、湖の回りを回ったとするならば、なんじはいかに思うか。その油は、人々の合掌祈祷の力によって、沈むであろうか。
(相応部経典42.6 増谷文雄訳)
ブンナカさんがたずねた。「動揺することなく根本を達観せられたあなたに、おたずねしようと思って、参りました。仙人や常の人々や王族やバラモンは、何の故にこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのか? 先生! あなたにおたずねします。それをわたしに説いて下さい。」師(ブッダ)は答えた。「ブンナカよ。およそ仙人や常の人々や王族やバラモンがこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのは、われらの現在のこのような生存状態を希望して、老衰にこだわって、犠牲を捧げたのである。」
ブンナカさんが言った。「先生! およそこの世で仙人や常の人々や王族やバラモンが盛んに神々に犠牲を捧げましたが、祭祀の道において怠らなかったかれらは、生と老衰をのり超えたのでしょうか? わが親愛なる友よ。あなたにおたずねします。それをわたしに説いて下さい。」
師(ブッダ)は答えた。「ブンナカよ。かれらは希望し、称賛し、熱望して、献供する。利益を得ることによって、欲望を達成しようと望んでいるのである。供儀に専念している者どもは、この世の生存を貪ってやまない。かれらは生と老衰をのり超えていない、とわたしは説く。」
(スッタ・ニパータ1043-1046、中村元訳)
このために、ブッダの教えが物語として書かれた後代の経典の中にときどき登場する神々でさえも、たとえば演劇における「通行人」や「見物人」のような、いてもいなくてもよいような脇役しか与えられておらず、せいぜい、修行者に質問したり、修行者を賛美したり、修行者に懇願したり、またあるときは修行者を誘惑する悪魔となったりするだけです。それによって、神々というものが救済的意義をまったくもたないことがわかるような特別な仕掛けがなされていることがわかります。つまり、仏典を読んでいくことによって、人々が次第に神々への執着心を捨てて、宗教的迷信を内側から壊滅させていくプログラムが仏典そのものに組み込まれているのです。
とくに、梵天(ブラーフマン)という神は、バラモン教・ウパニシャッドの伝統の中では、「最高神」「最高我」「最高ブラフマン」「世界を創造した創造神」「宇宙の主宰神」「究極的絶対者」であり、人々の救いは、梵天(ブラーフマン)と一体となることであって、人間の救いの究極的根拠となっていますが、この梵天は仏典の中ではまったく異なるものとして描かれます。たとえば、有名な「梵天勧請」という経典のなかで、ブッダが悟りを開いた直後、その悟った内容(縁起の法・涅槃の法)を他人に説くことをブッダは躊躇するという場面があるのですが、そのとき、この物語に登場する梵天は、
ああ、世は滅びる。ああ、世は滅びる。いまや如来・阿羅漢・正覚者(ブッダ)の心は、進んで説法するほうにではなく、退いて、静観するほうに傾いている・・・ (長尾雅人編『バラモン経典・原始仏典』、中央公論社、432頁)と考えて、ブッダの前に現れて、「膝を地に着けて、世尊の方に向かって合掌して」、次のように懇願(勧請)します。
世尊、法をお説きください。善き人よ、法をお説きください。世にはその眼があまり塵に汚れていない人々もおります。いまは彼らも法を聞いていないので心も衰退していますが、世尊が法をお説きになったら、やがて法を了解する者となりましょう。 (同上)ブッダはしばらくしてからついに悟りの法を説くことを決心して、つぎのように、梵天に告げます。
不死を得るための門は開かれた。耳を持つものは、聞いておのれの盲信を捨てよ。ブラーフマ神よ、わたしがこのすぐれた卓越した法を人々のために説かなかったのは、それが人々を害するであろうと案じてであった。 (同上、434頁)こうしてブッダの説法が始まった、というのがこの経典の内容です。ここには、世界宗教文学史上おそらく最大のアイロニーが語られています。通常、インドでもどこでも、宗教的救いというものは人間が神にお願いするものです。そのことをこの物語の著者はよく知っているのです。そのことを知っているからこそ、ここではわざと、「宇宙の主宰神」「究極的絶対者」であるところのブラーフマ神(梵天)を登場させて、その神を人間(ブッダ)の前にひざまずかせ、合掌させて、神が人間にお願いするという逆立ちの話に仕立て上げているのです。救いの根拠は神々ではなく人間であるという革命的思想が実に見事にこの物語に折り込まれています。「耳を持つものは、聞いておのれの盲信を捨てよ。」
神々も人間も、ものを欲しがり、執着にとらわれている。この執着を越えよ。神々を必要としない宗教の誕生です。(スッタニパータ 333、中村元訳)
このようにしてみると、「死後も生残って、永遠に存在し続けるアートマン」など、人間の知識領域を超えたことがらについていろいろ主張する者に対して、「愚かである」と言ったブッダの言葉は、仏典の様々なところに書き残されているブッダの基本的な世界観や人間観にまったく一致する言葉であったといえます。神秘的形而上学的問題に関するブッダの沈黙は徹底していたと考えられます。