こんにちは、匿名です。
それではYasukoさん、あなたのご意見にお答えしていきましょう。(長くなってしまったので、上下に分けました)
あなたは、大学生になったばかりの時に自分から本を読んででなくまあ 、誘われて入会されたんですね。当会の教えに感銘を受けてというより 少し流されて入ってしまったという様に私は感じとれました。
私の最初の文章は、確かに物足りなかったかもしれません。それが元で誤 解を招いてしまったようです。「入会から脱会までの敬意」を読んでくだ さいね。
ですから、大川総裁先生が仏陀であるというところから信じることが出来ていないんですね。
はい、今はもう信じていません。だって、証拠もないし、証明もできないのでは信じるわけにいきません。
会員の多くはまず本を読んで魂でもって「この本はまさしく人間を幸福 へと導く教えで、そして仏陀によって書かれたものだ」ということが、 理屈抜きで感じ取れた方ばかりです。それは、直感です。今生きている 世の中の知識をこねくり回してわかるというものでは決してありません。
だから、証明もできないし、証拠もないのですね。証明もできない、証拠もないような物事を信じるわけにはいきません。
ただ、それを掴んだ時、実感した時、人間は強くなれるんです。本物を掴んだという自信です。自分の生まれてきた意味が本当にわかるのです。
その「本物」を見分ける基準も「理屈抜きの直感」ですか?つまり、証明不可能、ということですね。それじゃあ駄目だ。とても信じられません。
「自分の生まれてきた意味」? ここではっきりいっておきましょう。そ んなものを知らなくても、充実した人生はおくれるのです。確かに人間は 「自分はどうして生まれてきたのだろう?人生の意味とはなんだろう?」 と考えるものです、特に若いときには。しかし「人生の意味がわからない のならば、私はもう生きていけない」という人というのは、心の病気にか かっていて、心が弱っているのです。治療を受ければ元気になって、そん なことをくよくよ考えたりはしなくなります。病気ではない、というのな らば、その人が臆病な性格だからです。もちろん、性格を無理に変える必 要はまったくありません。しかし、あれやこれがなくては私は生きていけ ない、という人は、病気でなければ臆病者です。私は、臆病というものを 賞賛はしません。臆病な人を誉める気にはなれません。
私たちは、生まれる時に天上界、過去世の記憶をすべて忘れます。そうしてもう一度、一からやり直す機会を仏の慈悲により与えて頂いているんです。
それも証明できないことですから、認めるわけにはいきません。そもそも、 霊の世界の存在の証明というものは、信じたがっている人にとっては立派 な証明となるものですが、信じていない人にとっては、信用のならないも のでしかありません。物理法則のように―たとえば、地上で物体を落下さ せたとき、落下距離は時間の2乗に比例する―という具合に、誰もが納得 できるような証拠が実験によって得られたことは、神や仏、霊に関しては ひとつもありませんから。
はっきり言って、幸福の科学はものすごい情報処理能力が必要とされま す。情報量が全然ちがうんです。他教団とは。発展もものすごいスピー ドです。あなたは、きっとものすごい情報量に圧倒されたんですね飲み 込むことができない中で、疑いの念がでてきて、苦しくてマインドコン トロールというふうに考えてしまったのではないでしょうか
これについては、「脱会の理由その2」で詳しくお答えしましょう。そち らを参照してください。(脱会理由をまとめたものをあとでお送りします。 その1からその3まであります)
そして匿名さんがおっしゃっている「良いことをを真理価値にあてはめ てこじつけている」というご指摘がありましたが、そのことについて意 見させていただきます。仏法真理を学んでいる会員からするとある意味 「そんなの当然」なんです。過去偉人達が残した偉大な思想は、そのほ とんどが仏から別れてきたものですから。個性の違いがあっても、根本 は一つ。真理は一つ。
どうしてそう言い切れるのですか? やはり「理屈抜きの直感」ですか? それでは私は認めるわけにはいきません。証拠もないのに。証明もできな いのに信じるだなんて。
偉人に限らず私たちは、みな仏の法をこの身に体言し、繁栄することが使命です。
どうしてそれが使命だとわかるのでしょう?大体、自分以外の存在に自分 の使命を決めてもらおうだなんて無責任じゃありませんか?自分のことぐ らい自分で決めるべきだと私は思います。
とくに仏法真理を学んでいると物事の善悪に非常に敏感となります。 どちらがより仏の法に適っているか、仏が喜ばれる考えか、それは結局 自分をより生かす選択となるのです。
善悪の基準も他人に決めてもらうわけですか? それもたった1人の人に!もっと多くの人の考え方を知ろう、という気にはなれないのですか?
それに、別に「仏のために」生きなくてもいいと私は思います。自分より 大きな存在というものはたくさんあります。家族のため、という生き方が あります。友人や恋人のためでもいいでしょう。自分の通っている学校や 会社のためでもいいと思います。さらに、自分の住んでいる区市町村、都 道府県、国家というものがあります。そして、すべての国々の人々、動物 や植物、森林や海洋などの大自然、というものもあります。これだけのも のがあるのだから、なにも「仏のため」という考えをもつ必要はないと思 います。
しかし、今この世には残念ながら誤った考えが満ち溢れています悪質な本も増えていますね。
それでも、幸福の科学出版の本はちっとも悪質だと思わないのですか?
その中で良書に巡り合った時に「これは仏法真理に適っている」という思いを持つのは決しておかしなことではないでしょう。
おかしなことです。それこそ「単なるこじつけ」にしか思えません。結局 あなた方の言う「仏法真理」というのは「信じたがっている人たちはこれ をすばらしい教えだと思うが、信じたくないと思えばいくらでも否定でき る、何の根拠もない(すなわち、証明もできない、証拠もない)たわごと」 でしかないように私には思われてなりません。
一つの本が正しいものか否かを判断できるのは、なかなか難しいものです。
ではどうして「幸福の科学出版の本が正しい」ということだけは「理屈抜きの直感」でたやすくわかってしまうのですか?
そしてインスピレーションというのは、ある分野で努力をしている人に 降りるものです。そして心が美しくなければ、正しいインスピレーショ ンをうけることができません。
インスピレーションというものは、「降ろされる」ものではなく、脳の中 で生み出されるものではないでしょうか? それに、「心の美しさの基準」 って何ですか? ひょっとして「大川隆法氏の言葉を絶対正しいと信じて、 それに少しも疑いを抱くことなく、ただひたすら盲信することができてい るか」ということですか? もしそうだとしたら、私にはとてもそういう 人たちが「心が美しい」とは思えません。当然、私はもうそういう人間に はなりたくありません。
(下巻に続く)