佐倉さんはじめまして。諸々の論文、興味深く拝見いたしております。私は真如や仏性などのアートマンを想定する如来蔵思想や汎神論的、没主体的思想は仏教にあらずと思っており、佐倉さんの、縁起、無我によってたつ仏教理論の展開に非常に胸のすく思いをしております。

ところで、ひとつ気になることがあり、ご意見をお伺いしたく思います。それは、縁起と相依性についてです。佐倉さんは、初期仏教の「因果性」としての縁起思想と、ナーガールジュナの「相依性」としての縁起思想は論理的に同じ主張であることを対偶律をつかい証明しておられます。この事自体に反論するわけではありませんが、私は「相依性」という概念に対してある種の危惧を感じております。この相依性という言葉が、ややもすれば仏教をおとしめる、あるいは誤解をまねく表現ではないかと思うのです。

縁起を「相依性」と解釈することは、縁起を無時間なものにし空間的に世界を表現するものとなるのではないでしょうか。そして、個々の事物が相依的に関係した世界とは、無限に多くのものの相互依存によってなりたつ世界とは、事々無碍、重々無尽の華厳思想を思わずにはいられません。私が、なぜ相依性という言葉にこだわるのかというと、まさにこの点においてなのです。縁起から時間性、因果性を抜き去って、相依性と言ってしまった時点で、簡単に汎神論になってしまう危険性があるからです。

もちろんナーガールジュナは、そういった意味で相依性を言ったわけではないでしょう。むしろ、このような縁起の空間的な解釈こそを批判した人だと思っております。しかし、このナーガールジュナの言葉が中国や日本において、我有論である如来蔵思想などの理論的根拠に使われているのも事実です。ですから、よけいに縁起を相依性と簡単に言ってしまうことに抵抗があるのです。

もっとも、この言葉だけではなく、空も、無我も、中国に入ったとたん本来の意味を失ってしまったわけですが‥‥‥。どうも、部分反応してしまったようです。佐倉さんのご意見も伺えればと思い書かせていただきました。

2001.6.30 mango


縁起から時間性、因果性を抜き去って、相依性と言ってしまった時点で、簡単に汎神論になってしまう危険性がある・・・。
縁起を相依性と解釈するからといって、時間性や因果性が抜き去られる、ということにはならないのではないでしょうか。

ナーガールジュナは、時間性(過去・現在・未来)や因果性さえも、相依性(縁起)として解釈します。

過去に依存しなければ、両者(現在と未来)の成立することはあり得ない。それ故に現在の時と未来の時とは(自立的に)存在しない。このようにして順次に、残りの二つの時(現在と未来)、さらに上・中・下や多数性などを解すべきである。

(中論 19)

過去がなければ現在や未来はなく、現在がなければ過去や未来もなく、未来がなければ過去や現在もない。つまり、過去・現在・未来は相互依存している、というわけです。

同じように、原因と結果も相互依存の関係にあります。

結果があれば、その結果には原因がある。しかし、それ(結果)がないときは、原因なるものはない。

(空七十論 6)

定義されるものから定義するものが成立し、定義するものから定義されるものが成立するのであって、それ自体成立しているのではない。またどちらかの一方から他方が成立するのでもない。(また)成立していない存在が、成立していないものを成立させることはない。 これと同じように、原因と結果・・・なども説明することができる。

(空七十論 27、28)

原因がなければ結果もなく、結果がなければ原因もない、というわけです。

このように、ナーガールジュナの縁起は、相依性のことであり、それは時間性(過去・現在・未来)や因果性を除去する概念ではなく、時間性(過去・現在・未来)や因果性さえもその内に含む概念です。彼はさらに、「上・中・下」のような空間性も「過去・現在・未来」の時間性と同じように解釈すべきである、と言っています。(中論、19) ナーガールジュナの縁起がそのような相依性を意味していることは、それが因果性と同一視できないことを意味しています。さらに、たとえば、かれの縁起説が相依性を意味していることは、

「一」がなければ「多」はなく、「多」がなければ「一」はない。したがって、ものは依って起こる(縁起)のであって、自立しているのではない。

(空七十論 7)

浄に依存しないでは不浄は存在しない。・・・不浄に依存しないでは浄は存在しない。

(中論 23)

というような表現からも明らかです。したがって、ナーガールジュナの縁起解釈は、あの如来蔵思想批判の松本史郎さんの縁起解釈、すなわち
私は、順逆の縁起説を宗教的時間論だと思っている。縁起を、論理的でも空間的でも相依相関的でもなく、全く時間的に解する。

(『縁起と空』、17頁)

というような解釈とは、明らかに異なっています。「一」と「多」あるいは「浄」と「不浄」の間の関係は、いかなる意味においても、時間的な関係ではないからです。

つまり、因果性が縁起なのではなく、因果性は縁起(相依性)のなかの一つに過ぎないのです。すくなくとも、ナーガールジュナの縁起解釈によれば、そういうことになると思います。

原因がなければ結果がない。結果がなければ原因がない。
これが、彼の「相依性」の縁起です。前半の「原因がなければ結果がない」とは誰でも言うことです。しかし、ナーガールジュナは、それに加えて、「結果がなければ原因がない」とも主張したのです。この風変わりな言い方はちょっと考察してみるべき興味深い表現です。

わたしは、この「結果がなければ原因もない」という表現が、「原因があれば結果がある」という表現と論理的に同値(対遇律)であることに気がつきました(『縁起と因果』参照)。そうすると、ナーガールジュナの相依性の縁起は、

原因があれば結果がある。原因がなければ結果がない。
というふうに書き換えることができます。これは
これがあるとき、かれがあり、これが生ずることから、かれが生ずる。これがなければ、かれがなく、これが生じなければ、かれが生じない。
という仏教の古典的な縁起の言い方とおなじです。

宇井伯寿や和辻哲郎以来、こんにちの如来蔵批判論にまで続いている縁起論争(「縁起は相依性か」)は、ナーガールジュナの相依性の縁起が旧来の縁起説と論理的に同値(対遇律)であることに気がつかない学者たちの無駄な論争です。