こんにちは。いつも興味深く読ませていただいてます。
さて、Satoshi & Naomiさんからのご指摘にもありましたが、 確かに新改訳ではサムエル記第二21章19節では、
ベツレヘム人ヤイルの子エルハナンは、ガテ人ゴリヤテの兄弟ラフミを打ち殺した。となっています。ところがこれには欄外に「歴代誌一20章5節による」 と註釈があります。佐倉さんのご指摘の通り「ひそかに挿入した」 と思われますし、あるいは伝承の過程で 「の兄弟ラフミ」が脱落したとも考えられます。
ところがたまたま手元にあった現代訳聖書では件の箇所は
ゴブでまたペリシテ人との戦いがあった時、 ベツレヘム人ヤイルの子エルハナンは、 ガテ人ゴリアテの兄弟ラフミを殺した。 ラフミが持っていた槍の柄は、 機織りの巻棒のように太かった。とあります。註釈はありませんが訳者・尾山令仁氏は この現代訳聖書の訳し方について 巻末で「『言語に忠実』よりも『原文の意味に忠実』」と述べています。 一例を挙げますと、マタイ1章の「ダビデの子イエス」という表現、 これは言うまでもなくイエスがダビデの実子ではなく ダビデの子孫という意味です。 (現代訳では「ダビデ王にも約束されていた」と大幅に意訳して表現) と言うことは、ここからは完全に僕の勝手な推測ですが、 もし、ヘブライ語でただゴリアテと表記した時はゴリアテ本人とは限らず ゴリアテの兄弟と言う意味も含まれる、とすれば、 NKJVの英訳が一番正確ではないかと思われます。 日本語では「ゴリアテ(あるいはその兄弟)」と書くべきでしょうか。 勿論、ラフミと言う固有名詞は使うべきではありません。 可能性としてはかなり低いですが考えられないことはないでしょう。
因みに僕が所属する日本救世軍では昨年までは日本聖書協会口語訳、 今年からは新共同訳聖書を公用にしています。 ところで佐倉さんが言われる「改訳」とは口語訳のことでしょうか。
では。
(1)「ゴリアテ」=「ゴリアテの兄弟」?
「ダビデの子」が「ダビデの子孫」を意味することは誰にでも納得できますが、
ヘブライ語でただゴリアテと表記した時はゴリアテ本人とは限らずゴリアテの兄弟と言う意味も含まれる・・・というのはきわめて強引な拡大解釈だと思います。ほんとうにそんなヘブライ語の約束があるのでしょうか。とても信じられません。そのような拡大解釈を許せば、聖書解釈はまったくの混乱に陥るでしょう。エバの夫は「アダムの兄弟」となり、カインが殺したのは「アベルの兄弟」となり、箱船に乗ったのは「ノアの兄弟」ということになってしまいます。それでは、十字架で殺され、3日後に復活したのは「イエスの兄弟ヤコブ」ということにさえなりかねません。もし、「ゴリアテ」の場合だけに、そのような拡大解釈を許すとすれば、そこには何か下心(聖書の矛盾を隠ぺいする)があるに違いありません。
『現代訳聖書』については知りませんが、いったいどんな根拠で尾山令仁氏は、写本にある「ゴリアテを殺した」という表現の「原文の意味」は「ゴリアテの兄弟ラフミを殺した」である、などという判断をされたのでしょうか。世界の誰も持っていないオリジナルの写本を氏は持っておられるのでしょうか。そうではないでしょう。わたしたちに伝承されてきた写本に忠実であれば、聖書は矛盾してしまうので、その矛盾を隠ぺいするために「の兄弟ラフミ」を挿入した、としか考えられません。すくなくとも、新改訳は、結果的には、「の兄弟ラフミ」を挿入したのは歴代誌とのつじつまを合わせるためである、と告白しているのですから、まだ許せるかもしれません。しかし、『現代訳聖書』のやりかた(「原文の意味に忠実」という隠れみのを使って強引な拡大解釈をほどこし、写本にない言葉を、読者にことわることもしないで、そっと挿入すること)は許すことはできません。聖書を信じさせるためのこのような小細工はきわめて不誠実で、真実を知りたい聖書読者をバカにしています。
もう驚くべきことでもありませんが、聖書信仰者たちは、真実を知ることより、すでに信じているドグマを信じ続けることにより大きな興味を持っているだけでなく、他人に対しても、真実を伝えることよりも、自分と同じドグマを信じさせることにより多くの興味を持っているようです。
しかし、新改訳や現代訳聖書の翻訳者たちの努力は、「聖書は神の言葉だからすべて正しい」という信仰が、じつは、人間的な虚構であることを教えてくれる、たいへん重要な証拠資料と言えます。
(2)「『ゴリアテ(あるいはその兄弟)』と書くべきでしょうか。」
写本に「エルハナンは、ゴリアテを殺した」と書いてあるのですから、そのまま「エルハナンは、ゴリアテを殺した」と訳せばいいのです。まったく、何の問題もありません。「エルハナンは、ゴリアテの兄弟(ラフミ)を殺した」などと、書き換えるべきではありません。なぜなら、そうしてしまえば、実際にあったと思われる最も有力な一つの可能性が見えなくなってしまうからです。つまり、ゴリアテを殺したのはダビデではなく、ダビデの家来エルハナンであったのに、英雄ダビデ伝説の伝承過程の中で、家来の手柄をダビデの手柄にしてしまったこと。そして、そのために、つじつまが合わなくなり、エルハナンが殺したのはゴリアテの兄弟ラフミであったという、後代(歴代誌)の編集的加筆が必要となったこと。そういう可能性です。もしかしたら、ダビデ自身がそのような工作をしたのかもしれません。なにしろ、ダビデは、家来の妻を奪うために、その家来を最も危険な戦場に送り込んで戦死させてしまうという破廉恥な王です(サムエル記下11章)。家来の手柄を自分のものであるかのごとく工作するなど平気でやったかもしれません。
このダビデの性格、ダビデ英雄化の歴史、矛盾する二つのダビデとサウルの出会い物語、ゴリアテを殺したのはダビデの家来エルハナンであるという記述(サムエル下)等々の理由から、この解釈はひとつの有力な解釈と考えられています。それなのに、「エルハナンは、ゴリアテの兄弟(ラフミ)を殺した」などと、翻訳者の勝手な書き換えをしてしまえば、事実であったかもしれないこの可能性が、読者の解釈範囲から失われてしまいます。翻訳者は自分の解釈を読者に押し付けるべきではないと思います。
(3)「佐倉さんが言われる「改訳」とは口語訳のことでしょうか。」
そうです。日本聖書協会の口語訳、「旧約聖書1955年改訳、新約聖書1954年改訳」です。
貴重な情報の提供、ありがとうございました。