さんより


聖書が果たして真剣に真理を探求する者にとって無意味なるかについて意見を述べます。

私がここで定義する真理とは以下のような課題に対する明確なる答えであり道を指します。

   ‐私自身のあるべき理想の生き方と死に対する心構え〜満足なる生涯とは
   ‐自己の存在意義と世界(他者・社会・天然)との関わり〜人間関係における自己のあり方
   ‐一般的に人間とはいかなるものか〜自由なる意志の使い道/義務・責任
   ‐この宇宙・天然の現象に関する摂理とは
   ‐創造主・神の存在とあり方
以上のことに総合的に明解なる答えと道を示している一冊が聖書であります。あなたは聖書に救いや真理を求める人間は真理への探求心を放棄した結果のゆえの選択と思い込んでいますが、聖書以外にこれほどに明確なる道を示してくれる書物が存在するならば、それも良いでしょう。

しかしながら、多くの著作物が過度な期待感を持たせたり、誇張的なる救済表現にあったり、またはあまりにも悲観的か懐疑的か嫉妬やねたみからの作者の発言であり、いずれは失望や裏切られたと思わざるを得ない作品ばかりです。

たとえば、あなたが引用する思想家や著作者の多くは一体どのような私生活を送って死んでいったかを考えれば、発言とはかけ離れた人生を送っているような人ではないでしょうか。結局はあなたが支持している人々が賢明なる生涯を貫徹できたかは疑わしいのです。

一方聖書はユダヤ民族の大叙事詩であり、歴史書であり、預言書でありますが、人生哲学書でもあり、自然科学書でもあります。その中で描かれる預言者、国王、戦士など歴史的人物ついての記述はすべて、彼等が罪に泣き、挫折と失敗の連続なる現代的に言うならば、世間的には敗北者の記録集であります。

たとえば、モーゼの記録は私生児として生まれ、富と権威よりも自由の価値を見出した奴隷解放者の指導者であるにも関わらず、彼の墓は祭られず、忘恩なる民衆の身勝手さを戒めとして後世に残したのです。ノアを初めに、多くの預言者は決して時代のヒーローではなく迫害されたアウトローでした。しかし、後世になって初めて、人間は彼等の賢明なる意志と正しき見識に自らを恥じ入り謙虚に敬服できるようになることの証が聖書なのです。

イエスの誕生についても彼の先祖には姦淫により生まれた者や異教徒と交わった者も存在しており、宗教的には恥ずべき生い立ちにあることを聖書は隠すことなく明示しています。ここに、神の定める正義と慈愛の価値観と小さき人間の考える正義や倫理道徳観との違いが明らかにされるのです。

聖書は決して聖人君子の成功物語ではなく、あらゆる時代にでもいかなる地においても世間から差別され迫害され卑近なる平民であっても、信仰的な生き方によって満足なる生涯を見出すことができるという大いなる真理を描いているのです。富や名声を求めても権威や世間や組織に隷属しても本当に満足した生涯にはならないことの実証の記録です。単なる小説や空想のような起承転結の明確なる思い付きではないのです。

中でもイエスの生涯と教えには多くの真理の道が示されています。しかし、当時の賢人や知識人や権威者の多くは今のあなたのように、批判的であって、当時の権威ある成功者の言葉にしか耳を傾けようとはしませんでした。たとえ、イエスの行った信仰的奇蹟の目撃者である使徒でさえも、最後の最後には、主イエスを置き去りにして逃げ去りました。これほどまでに、人間の本質と正体を明確に老若男女にわかりやすく示された書物が他に存在するでしょうか。

さらに使徒たちがイエスの復活を共通体験したことによって、突如自己の危険を顧みずに世界中に布教する道に人生をやりなおしたことは、我らもまた,負け犬から再生・復活・革新できる実証であります。すべては個人の意志と決断にあることを実証しているのです。

多くの賢人や哲人と自他ともに認められる多くの思想家の数千枚におよぶ独善的なる難解なる著作物による真理についての愚かなる自分自身では実行もできないような理論と学説にしても、この聖書の記録ほどには、人間の本質や真理を語り得ないのです。

そして、聖書が単なる過去のユダヤ人の為の歴史的叙事詩に終わらずに、いつの時代でも世界中のあらゆる立場の老若男女に高く評価されていいる理由は、イエスの新約聖書的解釈によって、旧約が神とユダヤ人との関係中心であった難解なる宗教的教義に過ぎなかったことを、あらゆる人間各人が生い立ちや国や民族を超えて一人の人間個人として生きる上での真理の道を誰にでもわかりやすく示してくれているからなのです。

現代的に言えば、イエスほどに権威や富や名声にこびることなく、国際的である一方で自己の故国・民族に対する感謝の念にある人はいるでしょうか。そして、偏見や固定観念などなく正しくすべての人に対して人間として最も崇高なる実践ができる人格者が存在するでしょうか。そして彼の生涯は短くも永遠の革新的精神を残してくれたのです。

あのソクラテスも同様なる人物であっても、イエスほどには真理の理解が足りなかった為に、結局は万人に対する人生理想を示すことはできませんでした。

イエスの記録が何故に四福音書の形で残されたのかについては、それほどに人間は真理の道を明確に示されても正しく理解できる者はいないというこの証にすぎません。同じ現象を目前にしても、個人は生い立ちや文化や民族的な価値観に縛られて素直に事実を見ているようであっても、個性と感性の違いからもまるっきり反対の出来事にも感じ取れるのです。人間がいかなる時においても共通認識に立つことの困難なる証明であります。

何故にあなた自身がイエスが自己の生涯をもって多くの悩める人々に示してくれた愛ある行為について反感や反論がもてるのでしょうか。ただ聖書の記録に異議を並べ立てて、あなた自身が直接会ったこともない他人である思想家の意見を本人の許可もなく勝手に持ち出して自分の反論の裏づけの如く叫んでいますが、果たして、聖書を愛読したニーチェや他の厭世的なる日本の思想家連中が死に際に同様なる見解を述べたてたかということをもっと真剣に考慮するべきです。

いつの時代でも世の中での名声を求めた思想家の本音は全く違ったものです。彼等は権威に弱くその権威にこびるためのアンチテーゼをしているに過ぎません。本当の批判精紳にあるものは執筆などで生計を立てたり、学者先生に甘んずるはずがありません。彼等自身の生涯から想像すれば、愚かなる妄信的なる読者でなければいずれは理解できるはずです。

聖書に特別なる力がある一つには、どこの国の権威や社会や思想にもこびることのない立場にあることです。妥協したり、こびて評価してもらい、出版したり文壇に登場したり、学問の世界で名声と権威を求めつづける肉欲の固まりなる思想家や哲学者が著す書物とは、当然ながらその著作物の性格が全く異なることは明らかなのです。

彼等知識人や賢人とは真理の道を極められるのは、自分が属する文化圏の権威や世間が認める高い教養と理性と見識がなくては語ることも考えることも不可能なほどに困難なるものと結論付けています。簡単に明確に聖書のように一言で示されては彼等の日用の糧とすべき思想活動が不要になってしまうのための時間つぶしに過ぎないのです。

彼等の多くは聖書を愛読しており、その見解・思想を認めながらも、キリスト教文化圏では教会の横暴なる不正なる権威が強すぎる事もあって、教会自体を批判する勇気も正義感もないために、教会主義批判としてのキリスト教の批判を遠まわしにしているに過ぎないのです。そして、単なる批判めいたことをあたかも詐欺師の如く難しくありがたく思わせるものが無神論的思想家や哲学者の仕事に過ぎないのです。

彼等自身が信仰を完全に捨てさって生涯を終えられたかは疑問であります。彼等は同じキリスト教文化圏にある読者を対象として、結局は正しき信仰への道を唱えているアンチテーゼとして受け止めてほしいのに過ぎないのです。彼等は単に教会や戒律に支配された組織に嫌悪感を示しているに過ぎず、個人的信仰を否定しているのではないはずです。彼等が望むのは個人の意志が守られる自由なる信仰に過ぎないのです。そして、彼等こそがイエスの真の理解者であるはずなのです。

彼等の思想は教会組織から離れて、自己自身で探求しようとする自己の目覚めや人生の困難さの解明への入り口にはなり得ても正しきゴールや出口に導いてくれるほどには誠実でもなく愛情もないことは明らかです。それどころか、より不安や混迷なる迷路に引きずりこまれかねない危険さえあるのです。

あなたによれば、信仰に生きることは無知蒙昧でしかも独善的なる思いこみであり、独自の真理追究の道を放棄した者として定義しています。その見解があなた自身の経験と確信の上で述べているのか、誰か過去に生きた思想家の言葉を借用しているかによって、大いなる相違があります。あなたが自己の経験と失敗によっての発言ならばまだ、聞くに値する助言でしょうが、もしも、単なる人の言葉を借用したに過ぎないとするならば、あなた自身が真理への探求を放棄したに他なりません。

真理の探求者とは人生の冒険者の如くそこに何があるかは独自の体験をもって確認する勇気と意志のある人のことです。そこには何もないとか、求めても結局は失望するから無駄だという人の多くは、自分自身が経験もせずに誰かの挫折や失敗を通じて疑似体験して本当の実感も確信もない立場での発言であります。

何事においても、挑戦してムダであったことは歴史上も個人的にも絶対にありえない発言です。そして、たとえ自分ができなかったからといって、誰か自分以外の人が正しき善なるものを求める挑戦にあっては絶対に否定的にはならないはずです。自分が見出したものだけで結論を出すには、真理や理想への挑戦はあまりにも遠大なる課題です。したがって、本人が望むならば支援することが経験者の為し得ることなのです。

まして、自分自身が少しでも真理への渇きが癒されて精紳の高揚を得るものがあるのならば、他の求める人々へも大いに共有してもらいたいとは望むことは当然であります。

その場合において、真理への道の扉についての自己自身の確信であるか、集団や組織的立場の義務感から他者に薦めるのかについてが問題なだけなのです。否定する時も肯定する時も常に問われることは自分自身の確信の上で善意の行為としての立場かが最後に残された問題であり不安に過ぎないのです。

しかし、人への働きかけがどうであろうとも、自己自身の人生を切り開けるのは自分自身の自由意志と決断しかありえません。他者の言葉を借用して批判することも、確信もないことを薦めることも結局は、誰に対しても何の価値もなく無意味なるものでしかないのです。

私たち人間が許されている大いなる力は自由なる意志であります。たとえ、どんな状況に追いこまれても自己の意志だけは常に自分に選択する能力が与えられているのです。したがって、いかなる外圧的支配にあったからといって、人間には最後には自分の信条や信念を貫く通せる道が与えられているのです。多少の寄り道や迷いにあったからといって何も恐れる必要はないのです。

あなたのように自己自身の独自性を独善的に守ろうとして、何らかの思想に支配されたり隷属されることを避けようとばかりしている失敗や挫折を恐れる、消極的なる保守的・懐疑的なる人生で、本当に真理の追究が可能なのかをあなた自身の経験と確信でもって明確に示してもらいたいものです。


(1)人生訓と真理

前回でも指摘しましたが、田中さんは、「真理」という言葉を認識論的価値(真・誤)としてではなく、ひとの生き方を指導する人生訓のようなものとして使用されています。だから、「真理の追究」などと言われてはいるものの、実際は、一般に理解されているような、真理を知るための認識努力などではなく、田中さんのそれは、「良い人生をおくるための指針を探求する」というほどの意味になっています。認識的努力としての真理の追究などは二の次で、人生をより良く生きるための指針の探求こそ、もっとも大切なものである、というのが、田中さんの語られる言葉の背後にあります。

そこで、田中さんの聖書信仰の土台とは、それがよい人生訓・生き方の指針をあたえてくれるというところにあります。

聖書は・・・信仰的な生き方によって満足なる生涯を見出すことができるという大いなる真理を描いているのです。
そのために、田中さんの批判も、それを逆にしたもの、よい人生訓・生き方の指針をあたえてくれない、といことになります。
あなたが引用する思想家や著作者の多くは一体どのような私生活を送って死んでいったかを考えれば、発言とはかけ離れた人生を送っているような人ではないでしょうか。結局はあなたが支持している人々が賢明なる生涯を貫徹できたかは疑わしいのです・・・。

人生訓と真理を混同して、生き方がどうなるかということで、真理(認識的真誤)を決定する --- その非論理性を指摘したのが先のニーチェの言葉ですが、田中さんのこのお便りそのものが、まるで、このニーチェの言葉の正しさを証明するために書かれたものになっています。あまりにも見事に田中さんの非論理性を指摘しているので、もういちど引用します。

ある教義が人を幸福にする、有徳にする、だからそれは真理である、というほど安易に考える者はいない。・・・幸福や道徳は論拠とならぬ。ところが、思慮ある人々ですらも、不幸にし邪悪にすることが同様に反対証明にはならぬ、ということを忘れたがる。たとえ極度に有害危険なものであろうとも、それが真であることを妨げはしない。

(ニーチェ、『善悪の彼岸』竹山道雄訳)

言葉の背後の人格を差別の眼で見ておられるために、ご自分のお好きでない人の語る言葉の真理が田中さんにはまったく見えなかったのです。これは、幸福や道徳を真理の論拠にする「真理探究者」の致命的欠点と言えるでしょう。真理は日常生活のなにげない俗人の言葉のなかにも発見できるかもしれないのに・・・。


(2)聖書信仰による生き方 -- はたして好ましいものか

このような、聖書やキリスト教だけが真理であるという田中さんの偏狭な立場は、今回はさらにエスカレートして、たとえば、ソクラテスは「結局は万人に対する人生理想を示すことはできませんでした」ということで単純に切り去られ、思想的学問的研究も「時間つぶしに過ぎない」ということで否定され、文学も「起承転結の明確なる思い付き」ということでいとも簡単に否定されました。

このようなことになると、はたして、聖書信仰による生き方がはたして好ましいものかどうか、疑問に思われてきます。人類は、聖書も含めて、さまざまな、歴史、文学、思想、科学をとおして、人間や世界について学んできたからこそ、さまざまな問題を抱えていながらも、それなりの発展をしてきたからです。聖書だけが人を幸せにすることができる、あるいは、聖書だけが学ぶに価値あるものとする、そんな田中さんの極端な主張は、今日のクリスチャンの中では、特殊だと思いますが、かつてキリスト教が、科学者や哲学者を弾圧してきた歴史を、わたしたちにまざまざと思い出させるものです。

お話を聞けば聞くほど、聖書だけが学ぶに価値あるものとする聖書信仰にしたがう生き方は、人類の文化を豊かにしてきた学問や文学や芸術や労働などすべて俗世界のものを蔑む、暗くて自由のない、とてもみすぼらしい生き方のように見えてきます。


(3)まとめ

その1:聖書はすばらしい生き方の指針となるから真理である、という主張は論理的に間違っている。

その2:聖書信仰による人生は、お話の内容からすると、とても、「すばらしい生き方」とは思えない。

その3:聖書信仰を持たなくても、自由と隣人愛と自立と勇気のある生き方はできる。(前回より)

以上です。