あなたの意見が常に聖書やキリスト信仰に批判的である事が、恐らくあなた自身があまりにもキリスト・聖書に対して大いなる心の傷を負ったためとしか私には感じ取れません。

私があなたに共感できることはただむやみに聖書や神や真理について盲従しようとして努力もせずして救われたと思い込んでいる似非信仰者や偽善者的クリスチャンが多く存在しており、彼等の考え方に同意できないという事であります。

あなたが常に戦っている相手とは一体誰なのですか。真理についてあなたとの真剣なる意見交換を望んでいるにもかかわらず、あなたは排他的であり、常に私以外の許せない誰かへの敵意の反応や復讐をしているに過ぎないとしか感じ取れません。

あなたの意見とは真剣に真理について考えつめた結果の考えではなく、初めから全ての意見に対して否定的で固定観念と偏見に満ちており、まるで、ヒトラーのユダヤ人に対する敵意と同様なる、ユダがイエスの弟子としてかえって躓いてしまったかのごとく第三者から見れば悲劇的なる立場にあるのはあなたではないでしょうか。

自分以外の相手を許せぬ心には必ず相手への大いなる失望か、または、自己の信頼に対しての相手の裏切りがあるものです。あなたの真理を求める道が正しくある為には、まずは、どんな相手(対象)であっても一度あった経験でもって、初めから偏見と固定観念で決め付けないことではないでしょうか。

あなた自身が確信できないから間違いだと言う考えでなく、本当に謙虚で理性ある教養ある人ならばまずは、自己自身の見方や考え方についても疑問を持つべきです。自己の無知も含めて愚かさを自覚することもまたとても重要であります。

もし、あなたが真剣に真理を求め続けている人であるならば、他人の愚かさや苦悩について優越感や唯我独尊的に批判することは恥ずかしいことであることを理解できるのではないでしょうか。

あなたが許せない対象(相手)が別のところにあるのであれば、直接その相手と戦ってほしいと考えます。さもなければ、あなたとの意見交換は何の成果をも生み出せないからです。

あなたが他人の好意や誠意に対して素直に恐れることなく受け止められるようになった時にこそ、真理への扉が開くものと考えます。あなたならば、懐疑的であった分だけ必ずや革新的なる精紳や思想を認めることができる人だと期待しております。


追伸


私にとっては自称クリスチャンという派閥的教会信者や偽善的宗教学者や聖職者に比べれば、あなたとの意見交換のほうが、まだ有益であります。

真理(未知)への憧れや不変的なる摂理を求める精紳に生きることは決して容易なることではありません。あなたの意見同様に、信仰や聖書についても簡単に片付けたり.勝手に神聖化する一方で、内心や本音では全く信じていない懐疑的な愚かなる信者がいかに多いかは想像のつくことです。恐らくあなたはそんな彼等にばかり注目した為に懐疑的な不信感を抱いたのでしょう。

信仰とは生涯をかけたとしても到底、個人的な小さな望みである持続的な幸福感や救いに至れるような単純明解なる道ではありません。私も含めて、あなたの言う通り、真理そのものが何であるかを完全に理解したり確信したということではなくて、真理の道を極めることが自己の能力だけでは絶対に見出すことも触れることも不可能であるという自己の無力と無知を自覚することから始まります。つまりは、真理への道を放棄するのではなく、求めるからこそに必要不可欠な選択なのです。

私にとって真理を求めることとは自分がこの世に何故に生きており、何を生涯の目的とするべきかを求めることにあります。当然ながら、世間や社会や世界や宇宙のことよりもまずは自己の存在意義の理解に始まるべきだと考えます。

しかし、自己は両親、家族、世間などの社会との関わりなくしては誕生も存在もできません。あなたは社会や国家については多くの理想や主義主張を誇らしげに語るのに対して、自己の存在意義については常に人の言葉と思想に左右され過ぎて、自己の存在価値については全く人任せなる日本型儒教的なる生き方にしか見えません。

人間は生存についての自己選択という自由意志を与えられていますが、誕生の時には自己選択によってこの世に出現したのかについては自覚していません。つまりは、何故この世に生まれてきたかについては、この理由を両親や世間や単なる偶然や都合に求めるのか、それとももっと崇高なる絶対的な創造主に求めるかによって、自己の存在意義は全く異なったものとなるのです。

キリスト精紳の根源は自主独立であります。そして、イエスの教えと生涯による聖書の解釈に拠れば、個人個人は各人がこの世においては神のもとに平等であり、大いなる可能性と能力を与えられて生涯において「天職」と「使命」にある生き方ができることを証明されているのです。

言うまでもなく、既存の宗教組織や国家の権威に関わることや低次元の幸福論の追求ではなくて、個人が自己の能力を最大活用する生き方を自己の信仰に頼って自己の判断と実践によって目指すことなのです。

その為には、あくまでも「隣人愛」精紳による挑戦的・革新的なる実践が伴うのです。健全なる精神の持主ならば、人間の真の幸福感とは自分の幸福と救済だけを求める上にはなく、他者との善意なる共有や共感の結果にあることは証明するまでもなく、当然ながら「キリスト精紳」においても根本精紳であります。

しかしながら、あなたの率直なる発言の通りに、キリスト精紳を実践することは決して容易ではありません。だからといってその道を放棄することは、結局は多くの人にとっては何かこの世の権威・権力・組織・世間体・名声・富の支配に隷属して奴隷なる人生を送るしか道はなくなり、妥協とあきらめの人生になりかねません。

キリスト精紳による真理への道とはその道が困難で前途多難であっても、たとえ途中で誤った道に陥ったとしても常にいかなる時でも場所でも、自己の意志による再生・復活・革新の精紳への信仰回帰によって、人生を一人でやり直せる道なのです。他者からの許可や容認などは一切不要なのです。まさに、「タンホイザー」の物語のように人から善人として認められることが目的ではないのです。

あなたに対して、私が好感が持てるところはあなたの正直なる疑問と真理への飽くなき飢えと乾きにあります。真理を求めるからこそ、懐疑的になることは理解できますが、自己の能力以上にあることを謙虚に受け入れる勇気と素直さも真理を求める者には必要不可欠であります。

自己の存在価値や意義がキリスト精紳としての「聖書」に学ぶか、または、他の思想に学ぶかは個人の自由意志に任されています。あなた個人にとっての人生意義や人生理想を明確に示してくれるものがあるとすれば、それは何なのでしょうか。差し支えなければ教えてください。

(1)価値の独占主義

どうやら、わたしたちの語っている「真理」はまったく別のことを指しているようです。わたしは「真理」をその言葉通り認識論的に使用しているのですが、田中さんは、聖書あるいはキリスト教から人生訓のようなものをひき出して、それを象徴的に「キリスト精神」とか「真理の道」などと呼ばれているからです。

私にとって真理を求めることとは自分がこの世に何故に生きており、何を生涯の目的とするべきかを求めることにあります・・・。

キリスト精紳の根源は自主独立であります・・・。

キリスト精紳による真理への道とは・・・人生を一人でやり直せる道なのです・・・。

あくまでも「隣人愛」精紳による挑戦的・革新的なる実践・・・。

個人が自己の能力を最大活用する生き方を自己の信仰に頼って自己の判断と実践によって目指すこと・・・。

わたしは、聖書やキリスト教を、「独立精神をもって人生をめげずに頑張る」といったたぐいの人生論に集約できるとは思いませんし、また個人的な感想を述べれば、観念的で内容のない凡庸な人生観だと思いますが、それはそれで、どうということはありません。個人がどんな人生観を持とうとその人の勝手だからです。

問題は、「自主独立」とか「人生を一人でやり直せる」とか「隣人愛」とか「革新」とか「自己の能力を最大活用する生き方」とか、まるで人生のすべての良いことは聖書やキリスト教を受け入れなければ不可能・困難であるかのごとき独善的な思い込み、あるいはその傾向にあります。

その[キリスト精紳の]道を放棄することは・・・妥協とあきらめの人生になりかねません・・・。

つまり、結局のところ、田中さんのキリスト教にも、「だからおまえもクリスチャンにならねばならない」という、隠された魂胆が見え見えなのです。だから、わたしの批判の内容も、キリスト教がなくても、田中さんが賛美されているような生き方はできる、ということでした。人を愛することも、自己の独立と自由を護ることも、失敗から立ち直る勇気も、改善と創造の仕事も、キリスト教なしに人々はやっているのです。

誰も反対できな美しいスローガンをみんな「キリスト精神」のなかに勝手に含めて、すべて良きことはキリスト教から来るかのごとき独占主義はとうぜん認められません。


(2)人生論と仕事

自己の存在価値や意義がキリスト精紳としての「聖書」に学ぶか、または、他の思想に学ぶかは個人の自由意志に任されています。あなた個人にとっての人生意義や人生理想を明確に示してくれるものがあるとすれば、それは何なのでしょうか。差し支えなければ教えてください。

「人生とはなんぞや」や「理想とはなんぞや」などという質問はわたしの中にはありません。こういう疑問はわたしが十代の頃もっていたもので、わたしが気がつかないうちに、いつの間にか、わたしの中から消えてしまったものです。「生きがいとはなんぞや」とか「人生の目的とはなんぞや」というような疑問は、毎日の生活の中に明確なやりたいこと(仕事)を持っていない人の心の中にしか生じてこない疑問だと思います。(「作者より平尾輝明さんへ」も参照してください。)