ナーガールジュナは、空の概念によって、単に自性を否定しただけでなく、「縁起」という、仏教のもう一つの重要な概念持ち出して、これを自性と対立させます。縁起とは「依って起こる」という意味ですが、ナーガールジュナは、ものは依存関係のなかで存在しているのであって、自性主義者が言うように、ものに内在する不変の本質のようなものによって自存しているのではないという主張を展開し、空とは縁起のことに他ならない、と語ります。
自性と縁起
空とは、ナーガールジュナによれば、存在がないことを意味するのではなく、存在には「自性(スヴァバーヴァ)」というものなどない、という意味であることを、前章では説明しました。すなわち、人間には永遠に自立自存する「個我」(魂、アートマン)などないように、ものには永遠に自立自存する「自性」などない、という主張が空の主張でした。自性という考え方が、仏教の基本思想である無我や無常の考え方と矛盾すると考えたからです。空とは、つまり、自性の否定であったわけです。
しかし、かれは、単に自性を否定しただけでなく、「縁起(「プラティチャ・サムットパダ」あるいは「イダパッチャ」)」という、仏教のもう一つの重要な概念持ち出して、これを自性と対立させます。縁起とは「依って起こる」と直訳されますが、おそらく「あらゆるものはさまざまな要因や条件に依存して存在している」、というほどの意味でしょう。ナーガールジュナは、ものは依存関係によって存在しているのであって、自性主義者が言うように、ものに内在する不変の本質のようなものによって存在しているのではない、という主張をしたのです。このことは、たとえば、次の例ように、自性と縁起が対立概念であることを示す彼の言葉で明らかです。
あれやこれに依存して生起したものは、自性をもって生起したのではない。(六十頌如理論 19)ものが自性として成立しているならば、それは縁起によって存在しているとは言えない。(空七十論 16)
縁によって起きているものは、何でもすべて、自性としては寂滅している。(中論 7:16)
空と縁起
これらの例では、縁起が自性の対立概念であることが語られていますが、すでに前章で見たように、空とは自性の否定でしたから、結局、空とは実は縁起のことである、ということになります。つまり、「空=無自性=縁起」という等式が成立します。
ものはすべて元素を因として成立しているが、そのことが縁起によって成立しているということであり、もしものがこのように、あるものに依存して成立しているならば、それ自体(自性)としては空である。したがって、ものはすべて空である。(空七十論 53自注)こうして、ナーガールジュナは、空とは縁起である、という、おそらく彼の中心思想とでも言うべき主張を確立します。すべてが空であることを、大々的に取り上げはじめたのは、彼よりもおそらく一世紀ほど前、西暦前後に世に出始めたさまざまな般若経典の無名の著者たちですが、彼らは空とは何であるかを「縁起」によって説明することはしませんでした。ナーガールジュナ以後に出てくる般若経にはナーガールジュナの影響が見られると言われていますが、たとえば、般若経のなかでもかなり後代に書かれたと思われる、有名な『般若心経』にも「縁起」という言葉は一度も使われていません。しかし、ナーガールジュナは、「自性」に対立する概念として「縁起」という仏教の伝統的概念を持ち出して、上記の例にあげたように、これによって空という概念を説明したのです。眼[見る作用]は依存関係から生じたものであるから空である。なぜなら、眼[見る作用]というものは[見られる対象との]依存関係によって成立しているからである。依存関係によって成立しているならば自体[自性]として成立していないから、したがって眼[見る作用]は自体[自性]が空である。(空七十論 同上)
およそ、ものが縁起しているということを、われわれは空であると説くのである。(中論 24:18)
およそ、どのようなものでも、縁起しないで生じたものはない。したがって、いかなるものであろうと、空でないものは存在しない。(中論 24:19)
また、ものが他によって存在することが空性の意味である、とわれわれは言うのである。他による存在には本体[自性]はない。(廻諍論 22)
初期の縁起思想
ナーガールジュナがこのように縁起の思想をたいへん重要視したことは、仏教思想史上たいへん重要な事実ですが、縁起の思想が仏教思想史上重要なものであることについては、もう一つの理由があります。それは、ブッダがただ縁起を説いたというだけでなく、ブッダ自身の悟りの内容そのものが実は縁起であった、と記述するさまざまな仏典の記録があることです。たとえば、次のサンユッタ・ニカーヤ経典からの例は代表的なものです。
比丘たちよ、わたしはまだ正覚を成じなかった時、かように考えた。まことに、この世は苦の中にある。生まれ、老い、衰え、死し、また生まれ、しかも、この苦を出離することを知らず、この老死を出離することを知らない…。ここに語られている縁起は通常「十二支の縁起」とよばれ、後代に成立した経典にあらわれるものであって、あきらかに形式化・ドグマ化したあとが見えます。現代の仏教学者の間では、ナーガールジュナは縁起のこのような解釈はこれを否定したとも言われていますが、ナーガールジュナの「十二支の縁起」に対する解釈に関しては幾つかの解釈上の困難が伴っており、必ずしも決定的なことは言えません。
比丘たちよ、その時、わたしは、かように考えた。何があるがゆえに、老死があるのであろうか、何に縁って老死があるのであろうか。比丘たちよ、その時、わたしは正しい思惟と知恵とをもって、かような悟りを得た。生があるが故に、老死がある。生に縁りて、老死がある。
比丘たちよ、その時、わたしはまた、かように考えた。何があるが故に、生があるのであろうか。何に縁って生があるのであろうか。比丘たちよ、その時わたしは、正しい思惟と知恵をもって、かような解釈をなした。有があるが故に、生がある。有に縁って、生がある。
比丘たちよ、かようにして、無明に縁って行があり、行に縁って識があり、識に縁って名色があり、名色に縁って六処があり、六処に縁って触があり、触に縁って受があり、受に縁って愛があり、愛に縁って取があり、取に縁って有があり、有に縁って生があり、生に縁って老死があり、愁・悲・苦・憂・悩が生ずるのである。
これが、すべての苦しい人間存在の縁ってなるところである。比丘たちよ、これが、縁ってなるところである、と未だ聞いたこともない真理において、わたしは、眼生じ、さとりを得ることができた。比丘たちよ、その時、わたしは、またかように考えた。何がなければ、老死がないであろうか、何を滅すれば老死を滅することができるであろうか。比丘たちよ、その時、わたしは正しい思惟と知恵とをもって、かような解釈をした。生がなければ、老死はない。生を滅することによって、老死を滅することを得る。
比丘たちよ、その時、わたしはまた、かように考えた。何がなければ、生がないであろうか。何を滅すれば生を滅することができるであろうか。比丘たちよ、その時わたしは、正しい思惟と知恵をもって、かような解釈を得た。有なければ、生がない。有を滅することによって、生が滅する。
比丘たちよ、かようにして、無明の滅によって行の滅があり、行滅によって識の滅があり、識の滅によって名色の滅があり、名色の滅によって六処の滅があり、六処の滅によって触の滅があり、触の滅によって受の滅があり、受の滅によって愛の滅があり、愛の滅によって取の滅があり、取の滅によって有の滅があり、有の滅によって生の滅があり、生の滅によって老死が滅し、愁・悲・苦・憂・悩が滅するのである。
これが、すべての苦しい人間存在の滅するゆえんである。比丘たちよ、これが、滅することを得る、と未だ聞いたこともない真理において、わたしは、眼生じ、さとりを得ることができた。(サンユッタ・ニカーヤ 12:10 増谷文雄訳)
仏教経典における縁起の思想は、さらにまた、これを一般化した表現がしばしば使用されています。それが、有名な
これがある故に、これがある。これが生ずる故に、これが生ずる。これがない故に、これがない。これが滅する故に、これが滅する。というものです。これは、中論の第一章の「縁の考察」においても部分的に引用されています。これらがそのままブッダの言葉であったかどうかは大いに疑問ですが、ブッダのさとりに関する記述には、ほとんど例外なく、このような縁起が語られているという事実は、ブッダのさとりの内容が縁起の思想と深く関係していたと考えざるを得ません。(サンユッタ・ニカーヤ 12:37 増谷文雄訳)
しかし、ブッダ自身(あるいは最初期の仏教)の縁起思想は、おそらく、もっと単純なものだったと考えられます。たとえば、現存する最も古い経典といわれる『スッタ・ニパータ』には、つぎのような記録が残されています。
メッタグーさんがたずねた。「先生!あなたにお尋ねします。このことをわたしに説いてください。あなたはヴェーダの達人、心を修養された方だとわたしは考えます。世の中にある種々様々な、これらの苦しみは、そもそもどこから現われ出たのですか。」師は答えた。「メッタグーよ、そなたは、わたしに苦しみの生起するもとを問うた。私は知り得るとおりに、それをそなたに説き示そう。世の中にある種々様々な苦しみは、執着を縁として生起する。実に知ることなくして執着をつくる人は愚鈍であり、繰り返し苦しみに近づく。知ることあり、苦しみの生起の元を観じた人は再生の素因をつくってはならない。」
(スッタ・ニパータ 1049-1051、中村元訳)
ここでブッダは、人間の様々な苦しみが執着を原因として起こること、そのような苦しみの起因を知らないで執着し続ける者は、繰り返し苦しみを体験することなどを指摘し、それゆえ、この苦しみの起因を知って、苦しみを再発させる起因を、つまり執着心をつくらないようにと、アドバイスしています。
これは、「十二支の縁起」のように、「無明に縁って行があり、行に縁って識があり、識に縁って名色があり……。無明の滅によって行の滅があり、行滅によって識の滅があり……」という複雑なものにくらべて、はるかに単純なものです。おそらく、ブッダは縁起思想によって、個々の例を挙げながら、人間の悲苦とその原因について語っていたと考えられますが、それらのいくつかを、「十二支の縁起」のように一列に連結してみたりしたのは、後代のことだと思われます。しかし、いずれにしても、苦の起因を知らないが故の行動が苦の生をもたらし、苦の起因に対する無知の克服が苦の克服をもたらすための第一歩である、という基本的な縁起思想のメッセージは同じです。
対立
このように、「縁起」という概念は、「無我」とか「無常」とともに、仏教の基本的な概念の一つとして確立されていたものであって、仏教徒であるならば、どの宗派であっても認めていたものです。したがって、ナーガールジュナは、縁起という概念を持って、「自性」を主張するサヴァスティヴァーダ派(説一切有部)批判を展開しましたが、サヴァスティヴァーダ派たち自身は自分たちが縁起を否定しているとは思っていません。ナーガールジュナは、自性と縁起が矛盾対立していて、自性を認めれば縁起が成立しなくなることを示そうとしますが、サヴァスティヴァーダ派たちは、むしろ、すべてが空であり、ものに自性がなければ、縁起も成立しないと考えます。
(反対者いわく)もしもこの一切のものが空であるならば、(なにものも)生起することなく、また消滅することもない。なにものを断ずるがゆえに、またなにものを滅するがゆえに、ニルヴァーナが得られると考えるのか。(中論 24:1)自性論者は、もし一切が空であり自性がないとすると、いったい何が生起し、また消滅するのか。それでは、悲苦を引き起こす原因や条件を断滅することによって悲苦からの解放(ニルヴァーナ)が得られるというブッダの縁起の教えを否定することになるのではないのか。そのように空説を批判します。それに対して、ナーガールジュナは、もし一切が不空でありすべてに自性があるとすると、自性は自立して存在する不変不滅の性質をもっているので、いかなるものも生起することなく、また滅することもなくなるであろう。まさに、それこそが、ブッダのニルヴァーナの縁起の教えを否定するものではないか、と切り返しているわけです。つまり、ここでは、自性という概念の含意する恒常性の問題に注目して批判が展開されているわけです。それは、次のような例にも見られます。(答えていわく)もしもこの一切のものが不空であるならば、(なにものも)生起することなく、また消滅することもない。なにものを断ずるがゆえに、またなにものを滅するがゆえに、ニルヴァーナが得られると考えるのか。(中論 24:2)
さらにまた、自性という概念の含意する自立性の問題に注目して、ナーガールジュナは次のような批判も展開します。原因の滅することによる静寂が「滅尽」といわれている。しかし、実体として(prakrtya)滅尽しないものがどうして滅尽すると言えるであろうか。(六十頌如理論 20)
もし生起も消滅もなければ、いったい何が消滅して涅槃するのであろうか。(と聞くならば、答える)自性として、生起することも消滅することもないことが解脱なのである。(空七十論 24)
原因と結果が同一であるということは、決してあり得ない。原因と結果が別異であるということも、決してあり得ない。もしも原因と結果とが一つであるならば、生ずるものと生ぜられるものとが一体となってしまうであろう。また原因と結果とが別異であるならば、原因は原因ならざるものと等しくなってしまうであろう。(中論 20:19、20)つまり、もし、ものはすべてそれに内在している自性によって自立しているという立場に立つと、原因と結果は同一物を指すか、それとも、まったく別々の物を指すか、そのどちらかとなります。ところが、もし原因と結果がまったく同じものを指しているとすると、原因とか結果とか言えなくなります。また、別々のものとして独立に存在しているならば、どちらがどちらの原因であるというようなことも言えなくなります。したがって、自性論に立てば、因果関係は成立しなくなる、というわけです。つまり、(仏教徒ならば当然認めなければならない)因果関係を認める立場に立つならば、ものが独立して存在しているという自性論は捨てねばならない、とナーガールジュナは論敵を追いつめるわけです。
こうして、ナーガールジュナは、ものがさまざまな原因や条件によって生起し消滅する縁起の現象は、自性がないからこそ可能であることを主張し、ものが自性として生起も滅尽しないことを「不生不滅の縁起」と呼びます。そして、そういう縁起を説いたブッダを「もろもろの説法者のうちで最もすぐれた人」と最大の敬意を表します(中論「礼拝の言葉」)。
相依関係としての縁起
ところで、すでに見た初期の縁起に関する記述からわかるように、縁起とは因果関係であると考えられます。このために、漢訳者(クマーラジーヴァなど)も、しばしば、この言葉を「因縁」と訳しているし、現代仏教学者の中でも、縁起をずばり"causality"(因果関係)と現代語訳するものもあります(David J. Kalupahana,Buddhist Philosopy: Historical Analysis, The University Press of Hawaii)。
しかし、このために、ナーガールジュナの言う縁起がはたして伝統的な仏教の縁起思想と同じかどうかについて問題があるのです。ナーガールジュナは「縁起」という言葉をしばしば「相互に依存していること」の意味に使用しているからです。たとえば、次のような例があります。
「一」がなければ「多」はなく、「多」がなければ「一」はない。したがって、ものは依って起こる(縁起)のであって、自立しているのではない。(空七十論 7)このように、ナーガールジュナの縁起の概念は「相互依存」を意味するために、現代の仏教学者はナーガールジュナの「縁起」をしばしば「相依性」「相互依存」「相関関係」「relativity」「relationality」などと意訳して、初期の縁起説と区別します。行がなければ無明も生じないし、それ(無明)がなければ行も生じない。この両者は相互に原因となっているから、それらは自性によって成立しているのではない。(空七十論 11)
生起に依存して消滅があり、消滅に依存して生起があるのだから、そのことからも、(生起や消滅の)空性があきらかである。(空七十論 16自注)
(ものが)存在し、かつ無であるということは同時に成立しない。(しかし)無ということがなければ有ということもない。つねに、有と無の両方がある。(そして)有なくして無もない。(空七十論 19)
定義されるものから定義するものが成立し、定義するものから定義されるものが成立するのであって、それ自体成立しているのではない。またどちらかの一方から他方が成立するのでもない。(また)成立していない存在が、成立していないものを成立させることはない。 これと同じように、原因と結果、感覚される対象と感覚するもの、見るものと見られる対象なども説明することができる。(空七十論 27、28)
結果があれば、その結果には原因がある。しかし、それ(結果)がないときは、原因なるものはない。(空七十論 6)
認識方法と認識対象との二つは混じり合っていて、二つは自立的には存在しない。(ヴァイダルヤ論 1)
行為によって行為主体がある。またその行為主体によって行為がはたらく。その他の成立の原因をわれわれは見ない。(中論 8:12)
もしも現在と未来とが過去に依存しているのであれば、現在と未来とは過去の時のうちに存在するであろう。もしもまた現在と未来とがそこのうちに存在しないならば、現在と未来とはどうしてそれに依存して存するであろうか。さらに過去に依存しなければ、両者(現在と未来)の成立することはあり得ない。それ故に現在の時と未来の時とは(自立的に)存在しない。このようにして順次に、残りの二つの時(現在と未来)、さらに上・中・下や多数性などを解すべきである。(中論 19:1〜4)
そこで、縁起を因果関係と解釈するカルパハナ(『Buddhist Philosophy』)などは、ナーガールジュナは初期の縁起思想を否定した、とさえ主張しています。日本の初期仏教研究に大きな影響を与えた、宇井伯寿(『印度哲学研究』)や和辻哲郎(『原始仏教の実践哲学』)らは、逆に、もともと縁起は「相依性」を意味していたのだ、と主張しました。
最近では、藤田宏達(「原始仏教における因果思想」『仏教思想3:因果』)や三枝充悳(『初期仏教の思想』)らによって、宇井伯寿や和辻哲郎らの主張が批判され、初期の仏教における縁起思想を「相依性」と解釈できるのはきわめて限られた場合に限っており、その主張は一般に間違っている、と指摘されています。
同様に、中村元(『原始仏教の思想 下』)も、初期の縁起の概念における項目の関係は「一方的」であり、ナーガールジュナの縁起の概念のように「可逆的」ではないことを指摘して、ナーガールジュナの縁起説は初期の縁起説とは「まったく異なった意味」を持つものである、と主張されます。
十二項目より成る縁起説の基本的な趣意としては、これが(甲)あるとき、かれ(乙)がある。これ(甲)が生ずるから、かれ(乙)が生ずる。これ(甲)がないとき、かれ(乙)がなく、これ(甲)が滅びるから、かれ(乙)が滅びる。という定型句で表示されている……。ところで、右に示されることを、述語で<これを原因としていること>(idappacchyata)という。この場合、甲がつねに条件づけるもの、または原因であり、乙がつねに条件づけられるもの、または結果である。条件付けの関係は、つねに一方的であり、可逆的ではない。ところが後代の中観哲学になると、右の定型句の趣意が全く異なった意味に解せられるようになった。それによると、甲が乙を限定し、また乙が甲を限定する相互限定、相互条件付けを<縁起>と呼んでいる。
果たして、ナーガールジュナは初期の縁起説を否定したのでしょうか、それとも、最初期の仏教はナーガールジュナのいうような相依性としての縁起を主張していたのでしょうか、それとも、ナーガールジュナは初期の縁起は否定しなかったが、全く新しい縁起説を主張したのでしょうか。ナーガールジュナはいかなる根拠を持って、「因果関係」としか解釈できそうもない初期の縁起の概念を「相依関係」と解釈し、主張することが出来たのでしょうか。
「因果関係」と「相依関係」の関係
このように、ナーガールジュナの縁起思想は仏教思想上の大きな問題のひとつとなっているものです。ところが、ナーガールジュナの「相依関係」としての縁起思想と、初期の「因果関係」としての縁起思想の間には、実は、以下に示すように、たいへん興味深い関係があります。
まず、十二支縁起は、その前半部分の
無明に縁って行があり、行に縁って識があり、…において人間の悲苦の起こる原因の筋道を語っていますが、これは通常「順観」と呼ばれています。後半部分の
無明の滅によって行の滅があり、行滅によって識の滅があり、…は、その悲苦の原因を取り除く筋道を語るもので、これは通常「逆観」と呼ばれています。初期の縁起思想はいつもこのように順観と逆観のペアで語られるところにそのひとつの特徴があります。それは、定型化された、
これがある故に、かれがある。これが生ずる故に、かれが生ずる。これがない故に、かれがない。これが滅する故に、かれが滅する。でも同じことです。ここで使われている「これ」とか「かれ」というのは、ある固定物を指さして言っているものではなく、そこにいろいろなものを代入できるいわば数式の変数にあたるものです。したがって、これらをもっと簡略して表現すれば、
XがあるゆえにYがあり(順観)、XがないゆえにYがない(逆観)。となりますが、ここで、「Xがある」をP、「Yがある」をQで置き換えて、論理の形式だけを見てみると、
もしPならばQであり、もしPでなければQでない。(論理式1)となります。これが初期の縁起説の基本的な論理的構造です。ところが、この前半の順観の部分(もしPならばQである)は、論理的には「もしQでなければPでない」とまったく同じことなので、次のように、言い換えることができるのです。(P->Q) & (-P->-Q)
もしQでなければPでなく、もしPでなければQでない。(論理式2)そして、この論理式2の表現形式こそ、実は、ナーガールジュナが多用した彼に特徴的な表現なのです。たとえば、すでに上記に引用しましたが、ナーガールジュナは『空七十論』において、つぎのように述べています。(-Q->-P) & (-P->-Q)
行がなければ無明も生じないし、それ(無明)がなければ行も生じない。(再出)これはまさに、論理式2の表現形式に従っています。ところが、十二支縁起では、上記に引用したように、つぎのように言っていたのです。
無明によって行があり、…無明の滅によって行の滅があ[る]…(再出)これは、あきらかに、論理式1の表現形式に従っています。つまり、一見ずいぶん異なっているように見える二つの縁起説は、実は、その論理的構造から見れば、両者はまったく同じことを語っていたのです。ナーガールジュナは「もしPならばQである」という代わりに「もしQでなければPでない」というふうに言い換えていただけなのです。
これは、形式論理学(命題論理学)では「対偶律」とよばれる基礎的な論理法則の一つです。この法則はたとえば(E.J.Lemmon,「Beginning Logic」より)次のように証明されます。
1 (1) P->Q A(仮定) 2 (2) -Q A(仮定) 1,2 (3) -P 1,2 MTT(Modus tollendo tollens 負格法) 1 (4) -Q->-P 2,3 CP(Conditional Proof 条件的証明)これは、もし「無明があれば行がある」を真理であると仮定すると、「行がなければ無明がない」も真理になることを証明するものです。つまり、この仮定の下で「行がない」を真理であると仮定すると「無明がない」という結論が帰結するために、この仮定の下では「行がなければ無明も生じない」が帰結する、というわけです。
この逆((-P->-Q) ならば P->Q)も否定の否定の法則(--P=P)を使って同様に証明されます。したがって、「もしPならばQである」と「もしQでなければPでない」は論理的に同値であり、どちらも同じことを言っていることになります。
ナーガールジュナは、初期の縁起の思想にひそむ、この論理的構造をよく理解していたに違いありません。だからこそ、彼は、初期縁起説の順観部分を「〜がなければ〜がない」というふうに彼独特の表現に言い替えたのだと思います。
もう一つ例をあげてみましょう。初期の縁起思想においては、因果関係を説明して、「原因があるから結果がある。原因がなければ、結果もない。」というふうな言い方をしています。ところが、ナーガールジュナは、これを
それ(結果)がないときは、原因なるものはない。(空七十論 6)などという言い方をするのです。なるほど、そう言われてみれば、そのとおりで、結果がなければ原因もないのであって、結果が原因に依存しているだけでなく、原因も結果に依存しているわけです。しかし、このように、「原因があるから結果がある」という言い方を「結果がなければ、原因もない」という言い方に置き換えることによって、因果関係さえも相互依存の縁起で説明し、よって、原因や結果が自立して存在しているのではないことを、ナーガールジュナは主張することができたわけです。「これら」のものによって(結果が)生ずるとき、「これら」のものが原因であると、伝えられている。(結果が)生じないときには、「これら」のものがどうして原因となりうるであろうか。(中論 1:5)
また(結果を)生じないものが原因であるということはありえない。そして原因であることが成立しないならば、なにものにとって結果が起こるのであろうか。(中論 20:22)
中道としての縁起
仏教にはその思想や実践を代表する様々な概念がありますが、「中道」もそのひとつと言えます。もともと、中道とは、快楽主義と禁欲主義という極端な生き方を否定した初期の仏教の修行の姿勢を意味していたと考えられますが、縁起を相依関係の視点から見るナーガールジュナは、その縁起思想を伝統的仏教の中道の概念とも結びつけます。
空性と縁起と中道とは意味の等しいものである、と言われた、たぐいない人(ブッダ)をわたしは礼拝いたします。(廻諍論「礼拝の言葉」)「縁起と中道とは意味の等しいもの」という主張は、彼の縁起の概念が相依関係を意味することがわかれば、理解しやすいと思われます。
(ものが)存在し、かつ無であるということは同時に成立しない。(しかし)無ということがなければ有ということもない。つねに、有と無の両方がある。(そして)有なくして無もない。(空七十論19)ここでも「無ということがなければ有ということもない…、有なくして無もない」というナーガールジュナの縁起思想の代表的な表現が使われていますが、このような「有」と「無」の相依関係から、彼は「有」とか「無」に執着する立場を「倒錯」とか「妄想」と批判し、これを否定します。
愚かな人はものに自性を想定して、有るとか無いとかと倒錯する誤りのために煩悩に支配されるから、自らの心によって欺かれる。(六十頌如理論 24)このように、「有」と「無」のいずれかに執着する立場を偏見として否定するのがナーガールジュナの存在論ですが、このような立場が可能になるのは、もちろん、「有」と「無」は相互依存していて、それらには自立的な存在根拠はない、という縁起思想があるからです。縁起によって存在するものは、水に映った月のように、有でも無でもない、と言う人々は、邪説に心が奪われることがない。(六十頌如理論 45)
有と無を妄想せず、ものを認識する人には、誤った認識によって苦悩する煩悩の過失がない。(六十頌如理論 47)
もしも、本性上、あるものが有であるならば、そのものの無はあり得ないであろう。何となれば、本性の変化することはけっして成立しないからである。本性が無であるとき何ものの変化することがあろうか。また本性が有なるとき何ものの変化することがあり得るであろうか。「有り」というのは常住に執着する偏見であり、「無し」というのは断滅を執する偏見である。故に賢者は「有りということ」と「無しということ」に執着してはならない。(中論 15:8〜10)
おそらく、このことはまた、「有」を定義することは同時に「無」を定義することであり、「無」を定義することは同時に「有」を定義することであり、そのことを、「つねに、有と無の両方がある」とか「無がなければ有もなく、有がなければ無もない」と表現したのだ、とも考えられます。そうすると、「有」とか「無」とかは、ものに内在するなにか(自性)によって実在論的に決定されるようなものではなく、認識主体の「有・無」の定義にも依存していることを意味します。このために、ナーガールジュナの存在論は、次の例に見えるように、彼の認識論と深く関わることになります。
定義されるものから定義するものが成立し、定義するものから定義されるものが成立するのであって、それ自体成立しているのではない。(空七十論 27)ここでも、認識方法がなければ認識対象はなく、認識対象がなければ認識方法もない、という相互依存の縁起論が展開されています。認識方法と認識対象との二つは混じり合っていて、二つは自立的に存在しない。(広破論 1、2)
もし自らで認識(方法)が成立するならば、君にとって、認識の対象を必要とせずに認識は成立することになる。自ら成立するとは、他を要しないことであるから。もし君にとって、認識の対象を必要としないで認識が成立するというならば、そのときにはその認識はいかなるものの認識でもあり得ない。それと反対に、それらが(対象に)依存して成立すると考えるならば、どういう誤りになるかというと、すでに成立しているものをさらに成立させることになる。(廻諍論40〜42)
こうして、ものの存在やそのあり方が、その定義および認識方法と深くかかわり合っていることから、対象を自立的に捉える実在論的立場も、また、対象を想定しないで認識というものが成立すると考える立場も否定して、いわば、「認識論的中道主義」とでも言うべき立場を明確にします。すなわち、あらゆるものを、相互依存の関係で理解するところから、「縁起と中道は同じ意味である」という主張がなされることになったわけです。
まとめ
ナーガールジュナは、「縁起」という仏教思想の最も重要な概念を「自性」の概念と対立させ、ものは依存関係のなかで存在しているのであって、自性主義者が言うように、ものに内在する不変の本質のようなものによって自存しているのではないという主張を展開し、「空とは縁起のことに他ならない」と主張しました。さらに、伝統的縁起思想の中に含意されていた相依関係を洞察することによって、縁起の概念を、単に因果関係だけでなく、存在論や認識論などにも広く応用することによって、仏教の中道主義にひとつの哲学的根拠を提供することになりました。