空の意味を知るためには「自性」とは何か、ということがどうしても明らかにされねばなりません。「すべてが空である」とは「すべてに自性が欠如している」ということだからです。したがって、空の理解とは自性の理解である、といっても過言ではありません。
空と自性
ナーガールジュナによれば、空とは、「ものが究極的には存在していないこと」を指す言葉でもなく、また、「ものの存在の仕方が幻想のように主観の創作にすぎないこと」を指す言葉でもなく、また「存在の仕方が何となくぼんやりしていること」を指す言葉でもありません。そうではなくて、空とはものに自性が欠如していることを指す、極めて意味の明確な言葉です。
自性とは「スヴァバーヴァ」(svabhava)というサンスクリット語の漢訳です。直訳すれば「自己自身の存在」というふうにでもなるでしょうか。現代日本語訳では「実体」と訳されることが多いようです。英訳では "self-existence" とか "own-being" あるいは "substance" などと訳されています。いずれにしても、ときどき説明書にあるように、諸々のものはあるように見えるだけで真実には無いのだ、というようなこととは全く違います。例えばナーガールジュナは、空が、何もないことを意味しているのではないことを表現して、
反論者は言う。--- ではいったいただ無のみなのか、それともなんらかのものがあるのか。これに対して答えて言う。「ある」と。(Sunyata Saptati 空七十論40-42のナーガールジュナによる解説文)と、断言しています。「どのように(ある)かと問うならば(答える)」と、彼は論を続けるのですが、結局、空とはものが自性として成立していないこと、つまり、存在しているものには自性がないことである、と説明します。このことに関する言明は非常に沢山あります。たとえば、
あらゆるものの自性は、原因であれ、条件であれ、その合体であれ、どこにも無いのだから、空である。(空七十論3)というような表現を数多くなしています。このようにして、「ものは自性が空である」とか「ものは自性として存在しているのではないから空である」とか「ものには自性がないから空である」というふうな言い方で、空の意味がものに自性が欠如していることであることを明確にしています。眼は自性として空であり……、物体もまた同じ有り様で空であり、その他の知覚の場もおなじ有り様で空である。(同上53注解)
条件として生起しているから、思惟の対象も自性が空であり、一方、思惟もまた自性が空である。(同上61注解)
それら存在は自性が空である、とありのままによく知るならば、迷いは生じない。(同上65注解)
自性として、「存在」があるのでもなく、「無存在」があるのでもない。原因と条件から生起した「存在」や「無存在」は空である。(同上67)
ものはすべて自性が空であるから、ものの「依存関係による生起」(縁起)を無比なる如来は教示された。究極の真理はそれに尽きている。(同上68、69)
もしわたしの言葉が、質量因と補助因とをあわせた全体のなかにも、それらから独立したものとしても存在しないならば、自性が無いことになるので、ものの空性が証明されるではないか。(廻諍論21)
もし、ものが自性として存在するならば、質量因と補助因とを取り除いてしまっても、それは存在するであろう。しかし、実際にはそのような場合には、ものは存在しない。それゆえに、自性はないのであり、自性がないから空である、と宣言されるのである。(同上注解)
自性がないにもかかわらず、自性があるように見えるのは、迷妄によるのである。(六十頌如理論26、27の注解)
さて、このようなナーガールジュナの「空」という言葉の使い方は、現代の日本人の「空」という言葉の使い方とあまり相違がありません。たとえば、私たちは「空き部屋」というような使い方をしますが、これは「部屋が無いこと」を意味するのではなく、「部屋に住人がいないこと」を意味します。新しく建設されたばかりのアパートに行けば、管理人さんは「部屋はみんな空っぽです」などというかもしれません。同じように、ナーガールジュナは、「すべてが空である」と語るとき、すべては存在しないと主張しているのではなく、すべて存在しているものには自性という「住人」などいないのだ、と主張しているのです。このことが納得されなければ、ナーガールジュナが、単に「存在しない」という表現をしている場合に、「自性として存在していない」ことを意味していたことが理解できなくなります。
さて、このように見てみますと、空の意味を知るためには「自性」とは何か、ということがどうしても明らかにされねばならないことがわかります。「すべてが空である」とは「すべてに自性が欠如している」ということだからです。空の理解とは自性の理解である、といっても過言ではありません。
自性の意味を知るために
それでは、自性(svabhava)とは一体何なのでしょうか。語源的にはすでに述べたように、「それ自身の存在」あるいは「自己存在」を意味します。しかし、言葉の本当の意味は、それが文脈のなかで如何に使われていたかを知ることが必要です。そのためには、ナーガールジュナ自身の著作だけでなく、ものには自性があると主張した人々の思想、つまりナーガールジュナの論敵の思想を調べてみることが必要となります。ナーガールジュナの論敵は仏教内外にいますが、その中心的な存在は同じ仏教徒であるアビダルマ論師たちです。例えば、ナーガールジュナは、論敵が彼ら自身のことを「事物(ダルマ)の部位に通じた人々」(『廻諍論』7)と呼んでいる言葉を引用していますが、これはナーガールジュナの論敵が、この書においてはアビダルマ論者たちであったことを示しています。その中でも特に、ナーガールジュナの主要な論敵は、当時もっとも勢力を誇っていた仏教一派、サヴァスティヴァーダ派(説一切有部)の論師たちだったと言われています。おそらく、この仮説は正しいと思われます。何故なら、「一切は空である」という思想が出現するには、それに関係する歴史的背景が必ずあったはずであり、サヴァスティヴァーダ派こそまさに「一切は有る」と説いた仏教宗派だったからです。しかも、この派は、ナーガールジュナが空という言葉で否定した自性という概念を非常に高く評価し、ものの真相を知るとは、ものの自性を知ることであると考えており、彼らの理解する宗教的目的である「悟り」、つまり無知からの解放とは、実に、ものの自性を知ることと深く関連していたと思われるからです。
ところで、本論においては、「スヴァバーヴァ」(svabhava)というサンスクリット語の漢訳である、「自性」という言葉をわたしは使用しています。現代語訳では、通常「実体」と訳されるのですが、聞き慣れた「実体」という言葉を使わず、あえて「自性」というあまり聞き慣れない古い漢訳の言葉をそのまま使用しているのは理由があります。自性という概念は、本論に関して言えば今のところまだ意味不明のものであり、それは数式における変数「x」のようなもの、あるいは読み始めたばかりの推理小説における正体不明の犯人のようなものですから、ある特定の意味を持つ言葉を使うよりは、意味の不鮮明な「自性」という語を使用した方が適切だ思われるからです。たった一つの等式ではわからないxの値も、幾つかの等式を組み合わせることによって、xの値が分かってくることがあります。また、少し読んだだけでは見当のつかない犯人の正体も、推理小説を読み進んで行くうちに、その姿が浮かび上がってゆくことがあります。そのように、「自性」という言葉の様々な使用法を見て行くうちに、その意味の「姿」を浮かび上がらせようというわけです。
自性に関する表現
まず、中論15章から、すこし引用してみます。
自性が、もろもろの縁と因とによって生ずると言うことは正しくない。自性が縁と因とによって生じたものであるとするなら、つくられたものである、ということになるであろう。(中論15:1)「縁と因」というのは現象を生じさせる「条件や原因」のことですが、自性は条件や原因なし存在している、といいます。また、その理由として、自性はつくられたものではないからだといいます。そして、自性は他に依存しないともいっています。つまり、ナーガールジュナによれば、自性は自立自存をその特徴としていることがわかります。さらにまた、どうして、自性がつくられたもの、ということがあるであろうか。なぜならば、自性とは、つくられたのではないものであり、また他に依存しないものなのであるから。(中論15:2)
さて、もし自性がそのような性質のものであるとすれば、その存在は無条件に成立していることになりますから、当然、自性は常住かつ不変不滅ということになります。そこで、
自性があれば消滅することがない。(空七十論16)とか、「業」を例にとって、
もし、業が自性としてあるならば、それから生じた身体は恒常となるであろう。それゆえ業も個我(アートマン)となるであろう。(同上35)とか、ナーガールジュナ語ります。ここでのナガールジュナの批判は、他宗教にたいする批判ではなく、仏教内批判です。というのは、よく知られているように、仏教の基本思想は、無常や無我の思想ですが、無常とは「ものはすべて変滅する」という考え方であり、無我(アン・アートマン)とは「人間も無常であり、永遠不変の魂のようなもの(個我、アートマン)など無い」という考え方です。ナーガールジュナの自性批判の論理は、自性を認めれば、自性は恒常不滅をその性質として持っているのだから、無常無我の仏教の基本思想に矛盾するようになる、というものです。だから、
もし、有を主張する人々が存在に執着しており、同じ道にいるとしても、そこにいささかの不思議もない。(六十頌如理論40)と、ナーガールジュナは批判するのです。ここで、「有を主張する人々」というのは、インド古来のブラーマニズムやその伝統を受け継いだヒンズー教を信じる人々のことです。彼らが、人間は恒常不滅の魂(個我、アートマン)を内在している、と信じていたことはよく知られています。また、ブッダはそういうインドの伝統的宗教の立場に真っ向から批判をむけて、無常無我の思想を説いて新しい思想が誕生させたこともよく知られています。そこで、ナーガールジュナは、ヒンズー教徒たちが恒常不滅の魂に執着するのは当然だけれど、ブッダの教えを信じると自称する仏教徒自身が、ものには恒常不滅の自性なるものがあると信じていることは実に「奇異である」といって仏教内批判をおこなっているのです。つまり、ナーガールジュナは、自性というものを、ブッダが否定したアートマン(個我)と同類のものと見なして、それを否定していることがわかります。ブッダの道によってすべては無常である、と言う人々が、論難をもって存在(もの)に愛着していることは奇異である。(同上41)
このことは、さらに次のような彼の言葉から、さらに確証されます。
存在 内在すると誤って信じられているもの 真実 ブッダ 人間 アートマン(個我=恒常不滅の魂) 無我 ナーガールジュナ もの スヴァバーヴァ(自性) 無自性、空
存在によく通じているひとたちは、存在は無常であり、欺く性質があり、空虚であり、空であり、無我であり、したがって寂離であると見る。(六十頌如理論25)つまり、空であること、無自性であること、無我であること、これらはナーガールジュナにとって同類なのです。
「すべて」とは
ここで、「すべては無常である」とか「すべてのものは空である」というときの、「すべて」とはなにか、「もの」とはなにか、すこし説明を必要とします。いま、「すべて」あるいは「もの」に、自性なるものがあるかないか、が問題となっているからです。いままで、単に「もの」あるいは「事物」などと訳してきた言葉は、サンスクリット語では「ダルマ(dharma)」と呼ばれ、それは通常「法」と漢訳されるている言葉です。仏教に限らず、一般的に、「ダルマ」という語の意味は「教え」「真理」「宗教的道徳的規範」「社会的義務」などを意味しますが、それらに加えて、この語は仏教にとって「もの」という意味を持つようになっていったのです。従って「一切法」という仏教語は「すべてのもの」と訳されます。
サンユッタ・ニカーヤという、いわゆる原始仏典の一つである経典集に、「一切」という名の短いお経が収められています。それによるとブッダは、サーバッティという所に滞在していたとき、次のように教えたというのです。
みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞いて下さい。「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。これが実際にブッダ自身の言葉かどうか確定する術はありませんが、初期の仏教の世界観を知るうえで、大変貴重なお経のひとつであることは確かです。この世界観には、少なくとも二つの注目すべき特徴があります。一つは、存在を認識主体とその対象というペアで見る視点です。もう一つは、人間の経験的あるいは知的能力を超えた領域に関しての主張は控える、という態度です。誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故でしょうか。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。(Sanyutta-Nikaya 33.1.3)
このような彼らの世界観の特徴は、彼らの人間観にも見られます。それが有名な五蘊説です。蘊(うん・おん)というのは、「スカンダ」(skandha)の漢訳ですが、「集まり」を意味します。人間存在は五つの集まり(蘊)から成立している、という見方です。この五つの集まりというのが「色・受・想・行・識」です。「色」(ルパ)の語義はまさに英語の「カラー」ですが、一般に肉体あるいは物質一般を意味します。認識主体の対象すべて(つまり物質世界)を、視覚対象である色が代表しているわけです。この「色」の対極にあるのが「識」です。「識」とは意識あるいは心を指し、まさに認識主体そのものです。「受」は、「痛い」とか「冷たい」などの感受、すなわち感覚のことです。「行」とは、方向性を持った意識のことで、意志を意味します。「想」は(ある対象や現象を)想うことです。そうすると、「色・受・想・行・識」という五つの集まりは、バラバラの集まりではなく、そこにはひとつの明確なオーダーが見られます。つまり、一方では、物質から感覚へ、感覚から想いへ、という、いわば認識対象からの刺激の方向性があり、他方、心から意志へ、意志から対象の想いへ、という意識の方向性があります。五蘊説による人間観とは、このように、人間存在を認識主体と認識対象の相互関係として見る視点のことに他なりません。五蘊とは、この関係を認識のプロセスの観点から分析した構成要素です。そしてまた、ここにも、人間の経験や認識能力を越えたものは一切考慮に入っていません。つまり、この五蘊説の人間観にも、認識主体とその対象の相対的関係からものごとを見る視点と、超越的存在に関しては言論を差し控えるという、初期の仏教の世界観を支配していた同じ原理がみられます。
【対象】色(物質) |