南京大虐殺。報告される日本軍の残虐行為はいつまでもわたしたちの心に逃げ場のない苦痛を与えます。以下は、伍必毅さん(74歳)の証言ですが、この証言の中にでてくる「柳田」という名の軍曹の、小さな(あまりにも小さな)シンドラー的行為だけが、ほんのわずかにわたしをホッとさせます。
私は回族であるがイスラム教ではない。日本軍が南京を占領したとき、19歳だった。とても痩せて背も低かった。私の家族は安全区に行かなかった。隣には張小六という人が住んでいた。床屋だった。日本に行ったことがあって、日本語が話せた。戸に日の丸の旗が張ってあった。その人のお陰で近所の人は日本兵に殺されなかった。
家は大きな家で女性はみな天井に隠れた。自分たちも日本軍が入城してから3日間は家の中に隠れていたが、3日後にはじめて外に出ると、道路には死体が放置されていた。日本兵が来て、1軒1軒から食料を運びだしていった。
しばらくすると、向かい側の家に1小隊の日本兵が駐屯した。日本兵は、その近所にあった家から、食料から茶わんにいたるまで盗んでいった。日本兵たちは半月ほどで別のところに移ったが、そのとき、私と従兄と姪の夫を苦力(クーリー)として、いっぱい荷物を積んだ人力車を彼らの駐屯地まで引かせた。中華門を出て郊外に出るとその光景は凄まじく、たくさんの死体が道路に沿って捨ててあった。中華門から15キロぐらいの東善橋までくると、麦干し場にたくさんの死体が捨てられていた。その翌日、安微省馬鞍山の採石というところで従兄の伍必成が疲れ果て倒れた。日本兵はすぐ彼を殺してしまった。
蕪湖まで車を引いて行ったが、日本兵の中に中国語ができる柳田という軍曹がいた。彼は、母も妻子もいるが、いつになったら帰れるか分からないと言っていた。私も母がいると話したら、柳田さんは路条(通行証)をくれて家に帰してくれた。姪の夫と2人で家に帰った。日本人の中にもいい人がいる。いまでも柳田さんのことは思い出す。
戦争は歴史になった。私も先が短い。日本が再び軍国主義を復活させないように努力してください。