思想家の自由に求められる勇気。思想家の戦争責任。梅原猛による痛烈な鈴木大拙批判です。
昭和十五年に『禅と日本文化』を書いて日本文化論を試みた鈴木大拙は昭和十九年大東亜戦争たけなわの頃『日本的霊性』という本を書き日本精神について論じた。鈴木が日本的霊性というはなはだ聞き慣れない言葉を用いたのは二つの理由によるのであろう。一つは、当時流行していた国家主義的な日本精神論に対して、自己の精神論を区別しようとするためであろう。国家主義的な精神論は、はなはだ排他的で同時にはなはだ浅薄である、真の日本的精神はむしろ普遍的でしかも宗教的である。日本精神、日本精神と普通言われているものには深い宗教的自覚が欠けている。日本の伝統的精神をそのような魂のない浅薄な伝統によって考えるべきでなく、深い宗教的な魂の自覚として考えるべきだると鈴木は言う・・・。
しかしまもなく日本は敗れ、それとともに日本精神は無力となった。そのとき日本的霊性はどうしたか。日本的霊性はいままでの日本精神に対する消極的批判を積極的にし、神道に対して痛烈な批判を浴びせたのである。鈴木は昭和二十一年に『霊性的日本の建設』なる本を書き、神道は児戯的であり、祈りを知らず、死を知らず、信もなく、無意識的に巣作るものであるということを主として平田篤胤によって作られた国家神道、とくにその現代の代表者である山田孝雄にたいする批判として述べた。こうして誤った日本精神をぶちこわし、すでに『日本的霊性』によって語られたあの大地的霊性を戦後日本の指導原理として鈴木はかかげようとしたのである。
『日本的霊性』と『霊性的日本の建設』を比べてみると、内容においてほとんど変わりはなく、ただ後者には前者において言外の意であった国家神道批判が公然と言明されたのみである。わたしはこれを読みながら日本的霊性なるものは、案外不自由なものであると感じたのである。戦争の最中でも、もっと激しい言葉を戦争批判に、神道批判に、あるいは天皇批判に投げつけた人があった。こういう人たちは多く獄舎につながれる身となったが、彼らに比べると、鈴木によって語られる日本的霊性はあまりに用心深すぎたように思われる。
「今だから脱白に公言できるが、自分等は今度の戦争は始めから負けるものと信じていた、また負けてくれれば日本のために好かろうとさへ思った」とか、「これは戦争集結前のものであったので、所述は自ずから限られたところがある」とか、「それを余りに直接にいふと当局の忌諱にふれて、出版は不可能になる」とか、鈴木は無造作に言う。しかし、わたしはこういうことばが無造作に言われてよい言葉かどうかを疑うのである。
今度の戦争が始めから負けると判っていたなら、思想家はやはりそれを公言すべきではないか。あやまった必勝の信念により日本は戦争に突入し、このあやまった必勝の信念により、絶望的な戦いを日本は長い間続けた。一日戦うことによって何万人の人の血がいたずらに流れた。思想家は、こういう状態を前にしてあえて沈黙すべきなのだろうか。それより彼はあやまった信念に固まった人間たちの蒙をといて一日も早く戦争を終わらせることに努力すべきではないだろうか。
鈴木は、戦争終結前のものだから、所述は自ずから限られたものだというが、はたして自らの言論を自ら限定するのが禅的自由なのだろうか。また、それを直接に言うと当局の忌諱にふれて出版不可能になるというが、おそらくイエスや、ソクラテスならば、そこには出版よりもっと大事なものがあると思ったに違いない。おそらく、すべての人がイエスやソクラテスの真似をすることはできない。人は誰でも命は惜しいし、牢につながれたくないものである。しかし、命が惜しく、牢につながれたくなかったら、そこで自己の不自由さと人間の弱さを自覚すべきである。こういう精神的不自由さにもかかわらず、主客対立を越えた絶対自由の境地を説くのはまったく奇妙なことなのである。
もしも鈴木が牧口常三郎のように、あえておのれの信念のためには獄死する宗教的勇気をもたなかったとすれば、せめて彼は戦後、神道に対して投げつけられた痛烈な批判を自分自身に対して投げつけるべきであったと思う。