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言の葉

(43)

「開化の推移はどうしても内発的でなければ嘘だ・・・」


日本における西洋文明の意義は大きい。それをどのように理解するかという問題を避けては、日本の過去も現代も未来も語ることはできない。安易な「第三の開国」論が聞かれる今日この頃ですが、ここにに紹介するのは、この問題に深く立ち入らざるを得なかった明治の知識人を代表するひとり、夏目漱石の言葉です。


それで現代の日本の開化は前に述べた一般の開化とどこが違うかというのが問題です。もし一言にしてこの問題を決しようとするならば私はこう断じたい、西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の開化は外発的である。ここに内発的というのは内から自然に出てきて発展すると言う意味でちょうど花が咲くようにおのずからつぼみが破れて花弁が外に向かうのをいい、また外発的とは外からおっかぶさった他の力でやむを得ず一種の形式を取るのを指した積なのです。

もう一口説明しますと、西洋の開化は行雲流水のごとく自然に働いているが、御維新後外国と交渉を付けた以後の日本の開化は大分勝手が違います。もちろんどこの国だって隣りづきあいがある以上はその影響を受けるのがもちろんの事だからわが日本といえども昔からそう超然としてただ自分だけの活力で発展したわけではない。ある時は三韓またあるときは支那という風に大分外国の文化にかぶれた時代もあるでしょうが、長い月日を前後ぶっ通しに計算して大体の上から一瞥してみると、まあ比較的内発的の開化で進んできたといえましょう。少なくとも鎖港排外の空気で二百年も麻痺したあげく突然の西洋文化の刺激に跳ね上がったくらい強烈な影響は有史以来まだ受けていなかったというのが適当でしょう。日本の開化はあの時から急激に曲折し始めたのです。また、曲折しなければならないほどの衝撃を受けたのであります。

これを前の言葉で表現しますと、今まで内発的に展開して来たのが、急に自己本位の能力を失って外から無理押しに押されて否応なしにそのいう通りにしなければ立ち行かないという有り様になったのであります。それが一時ではない。四五十年前に一押し押されたなりじっと持ち応えているなんて楽な刺激ではない。時々に押され刻々に押されて今日に至っただけではなく向後何年の間か、または恐らく永久に今日のごとく押されて行かなければ日本が日本として存在できないのだから外発的というより外に仕方がない・・・。

粗末な説明ではあるが、つまり我々が内発的に展開して十の複雑の程度に開化を漕ぎ着けた折も折、図らざる天の一方から急に二十三十の複雑の程度に進んだ開化が現れて俄然としてわれらに打ってかかったのである。この圧迫によってわれらはやむを得ず不自然な発展を余儀なくされのであるから、今の日本の開化は地道にのそりのそり歩くのではなく、「やっ」と気合いをかけてはピョイピョイと跳んで行くのである。開化のあらゆる段階を順々に踏んで通る余裕をもたないから、できるだけ大きな針でぼつぼつ縫って通り過ぎるのである。足の地面に触れるところは十尺を通過する内にわずか一尺くらいなもので、他の九尺は通らないのと一般である・・・。

そういう外発的の開化が心理的にどんな影響をわれわれに与えるかというとちょっと変なものになります。・・・・心理学者の解剖を拡張して集合の意識やまた長時間の意識の上に応用して考えてみますと、人間の活力の発展の経路たる開化というものの動くラインもまた波動を描いて弧線をいくつもいくつもつなぎ合わせて進んで行くと言わなければなりません。むろん描かれる波の数は無限無数で、その一波一波の長短も高低も千差万別でありましょうが、やはりAの波がBの波を呼び出し、Bの波がまたCの波を誘い出して順次に推移しなければならない。一言にして言えば、開化の推移はどうしても内発的でなければ嘘だと申し上げたいのであります・・・。

日本の開化は自然の波動を描いてAの波がBの波を生みBの波がCの波を押し出すように内発的に進んでいるか、というのが当面の問題なのですが、残念ながらそう行っていないので困るのです・・・。もともと開化がAの波がBの波へ移るのは、すでにAは飽いていたたまれないから内部の要求の必要上、ずるりと新しい一波を開展するので、Aの波の好所も悪所も酸いも甘いも嘗め尽くしたうえにようやく一生面を開いたといってよろしい。したがって従来経験し尽くしたAの波には、衣を脱いだ蛇と同様、未練もなければ名残惜しい心持ちもしない。のみならず新たに移ったBの波に揉まれながら毫も借り着をして世間体をつくろっているという感が起こらない。

ところが日本の現代の開化を支配している波は西洋の潮流で、その波を渡る日本人は西洋人でないのだから、新しい波が寄せる度に、自分がその中で居候をして気兼ねしているような気分になる。新しい波はとにかく、今しがたようやくの思いで脱却した古い波の特質やら真相やらもわきまえるひまのないうちに、もう棄てなければならなくなってしまった・・・。こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐かなければなりません。それをあたかもこの開化が内発的ででもあるかのごとき顔をして得意でいる人のあるのは宜しくない。それはよほどハイカラです、宜しくない。虚偽でもある。軽薄でもある・・・。

西洋人と交際する以上、日本本位ではどうしてもうまくゆきません。交際しなくとも宜しいといえばそれまでであるが、情けないかな交際しなければいられないのが日本の現状でありましょう。しかして、強い者と交際すれば、どうしてもおのれを棄てて先方の習慣に従わなければならなくなる。われわれが、あの人はフォークの持ち様を知らないとか、ナイフの持ち様も心得ないとか何とか言って、他を批評して得意なのは、つまり何でもない、ただ西洋人がわれわれより強いからである。われわれの方が強ければあっちにこっちの真似をさせて主客の位置を変えるのは容易のことである。がそう行かないからこっちで先方の真似をする。

しかも自然天然に発展してきた風俗を急に変えるわけにいかぬから、ただ機械的に西洋の礼式などを覚えるより仕方がない。自然と内に醗酵して醸された礼式ではないから、取って付けたようではなはだ見苦しい。これは開化じゃない、開化の一端ともいえないほどの些細な事であるが、そういう些細なことに至るまで、われわれのやっていることは内発的ではない、外発的である。

これを一言にしていえば、現代日本の開化は皮相上滑りの開化であるという事に帰着するのである。むろん一から十まで、何から何までとは言わない。複雑な問題に対してそう過激の言葉は慎まなければ悪いが、われわれの開化の一部分、あるいは大部分はいくら自惚れてみても上滑りと評するより致し方がない。しかしそれが悪いからお止しなさいというのではない。事実やむをえない、涙をのんで上滑りに滑って行かなければならないというのです・・・。

とにかくわたしの解剖した事が本当の所だとすればわれわれは日本の将来というものについてどうしても悲観したくなるのであります。外国人に対しておれの国には富士山があるんだというような馬鹿は今日はあまりいわないようだが、戦争以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。なかなか気楽な見方をすればできるものだと思います。ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申したとおり私には名案も何もない。ただ出来るだけ神経衰弱にかからない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うより外に仕方がない。



--- 夏目漱石「現代日本の開化」(講談社学術文庫『わたしの個人主義』)---