堺事件といえば、明治元年(1868)二月十五日、堺市の警備についていた土佐藩兵たちが、市中で目に余る行動をしたフランス人軍艦の乗組員たちと揉み合い、あげくのはてにフランスの船艇へ発砲した事件である。その結果、フランス公使は日本政府に抗議し、五か条の要求をおこなった。その一条目は、土佐藩の「加虐将兵」を斬首すべしというのだった。
これをついに受諾した政府が調査したところ、自分は発砲したと申告した者が二十五名をかぞえた。フランスの要求は二十名だったから、くじびきで刑死者が選ばれた。
こうして二月二十三日、堺の妙国寺境内において、政府刑法官、土佐藩代表、さらにフランス将兵の検視のもとに、二十名の切腹が行われることになった。森鴎外の小説『堺事件』は、第一番に腹を切った箕浦猪之吉のその状況をこのように描写している。
「左の脇腹へ深く突き立て、三寸切り下げ、右へ引き廻して、又三寸切り上げた。刃が深く入ったので、きずぐちは広く開いた。箕浦は短刀を棄てて、右手を創に挿し込んで、大網を掴んで引き出しつつ、フランス人をにらみつけた。」とにかく壮烈な切腹だったようである。結局、十一名がつぎつぎに腹を切ったところで、フランス側が切腹の中止をもとめて退出した。一説に、とてもその惨状を見るにたえなかったからだと言う。