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言の葉

(38)


 昔から世を捨てた墨染の身でありながら、恋の歌を詠んだ僧侶の例は数しれない。しかも、それをためらった様子が見えないのは、どういうわけなのか。色欲は仏道の深く戒めるところ、犯してはならない第一の悪徳に数えられている。ところが、僧侶が詠んだ恋の歌がかえってもてはやされたりする、たとえば、僧正遍昭(810-890)などは、歌の世界では、とりわけよく知られた名である。そういう道心を失った僧侶を、どうしてほめそやすのか、にくみ、排斥するのが当然ではないか。

 なんというおろかなことをいうのか。まえにもくわしく説明したように、歌はこころに思うことをことばをととのえていうものである。こころに浮かぶことなら、善であれ、悪であれ、そのままよんでゆくのが歌である。こころをとらえた色欲を歌にする、よいではないか。それがよい歌なら、ほめたたえるのになんの遠慮がいるだろうか。歌がすぐれてさえいれば、僧俗のちがいは問うところではない。

また、歌をよむものの人柄や行状、その善悪や美醜については、別個に論じればよいので、歌の立場からとやかく言うべきことではない。歌の道において論ずべきは、ただ歌がよいか、わるいかという一点だけである。僧侶だから恋の歌をよんではいけない、というような無意味なことを言う必要はない。

それとも、出家といえば、みな仏陀や菩薩のようなこころをしている、とでも考えているのだろうか。僧侶にすこし好色めいたふるまいがあると、ひとびとがそれをにくむことは俗人の場合とは雲泥の違いで、あたかも大罪を犯したかのように非難する。たしかに、色欲は仏陀のふかく戒めることであり、輪廻や妄執のきずなとして、それに過ぎるものはない。そこで、僧侶が色欲をきらい、それを避けようと努力するのは当然だが、僧侶とて同じ凡夫の身であり、俗人と違った性質があるわけではなく、人情においてなんのかわりもあろうはずがない。

しかも、ことは万人のこのむ好色の道であり、僧侶だけがそれをきらう理由はありえないのである。もちろん、こころに思うことは俗人と同じでも、出家の身である以上、欲情をおさえ、身をつつしむのは当然である。しかし、僧侶がこころに好色を思うことまで非難するのは、人情を解しない者のすることである。

仏陀がふかく色欲を戒めたのも、それをのがれることがだれにもむずかしいからである。仏陀のいましめのきびしさをみても、それを避けることがいかに困難であるかがわかるはずである。そこで、僧侶の身としては、身をかたく持し、欲情をしりぞけ、恋の道にふみこまないようにすべきだが、それだけに、かえってこころの中でが好色の思いがつのり、鬱積するのは自然の成り行きである。そのはけ口のない思いを、せめて歌によってはらそうとするのだから、じつにあわれではないか。

すぐれた恋の歌が俗人よりも僧侶の間に多いのは、むしろ当然である。ところが、いまでは歌をよむ僧侶も、恋の歌はためらってよまない。いや、歌に限らず、今日の僧侶は、およそ好色のことについては、いっさい関心がないというそぶりをみせる。これは、いまの世の僧侶も俗人も、こころに偽りが多く、考え方も間違っている証拠である。僧侶だからといってどうしてこころに好色の思いをいだかないことがあるだろうか。

それにつけてもむかしのひとは率直で、こころを偽ったり、かざったりするのがすくなかったことを思い出す。ある老僧が参詣にきた京極の御息所とよばれる貴婦人のうつくしさに打たれ、その手をとって、

初春の初子の今日の玉箒
手にとるからにゆらぐ玉の緒
こんなにわたしのこころはふるえている、とよんだという昔のはなしは、じつにやさしく、あわれである。

しかし、いまでは、僧侶が恋の歌をよんだりすれば、見下げはてたなまぐさ坊主とあなどられ、きらわれるのがおちである。また、僧侶の方でも、おもてむきは清廉潔白な素振りを見せながら、じつは色欲を避けるどころか、俗人にもまして淫乱なふるまいにおよぶものがすくなくない。そういういつわりのこころは、いくらにくんでも足りるということがない。

--- 本居宣長『排廬小船(あしわけおぶね)』荻原延寿訳 ---