これは、わたしの「真理と論理、および真理の根拠」に対して寄せられた、cloma さんによるご批判とわたしの応答です。
8月24日
事実に依存するかしないかは、「現在の事実」と言い換えれば同意できる面が多いと思います。佐倉さんが事実に依存していない例としてあげたもの、「未来の仮定」は、過去の事実の記憶に基づいているわけで、「事実」とここで呼んでいるものと、言明とは実際には切り離せないように思います。また、もし切り離すのであればそれは実用性を失い言語的な遊びに過ぎなくなってしまうかもしれません。
……西田の「純粋経験」なるものは、このように、きわめて独断的な判断であり、 それは彼の思い込みにしかすぎません……。真理は結局個人的問題ではないのか?他人の意見は参考にはなるが、それが独断かどうかは自分での追体験があるかどうかにかかっており、その意味では思考感情感覚を含む全体的な体験によってのみ追求できるのではないか?もし、佐倉さんが何らかの体験を経て、西田さんの文をまた読む時、彼の言っていた事が独断でもなんでもない当たり前の事のある一面であったと論理的考察も無しに了解する可能性さえあると思います。
……人類の科学の発展が、この「知球モデル」の有効性を証ししていることは言うまでもありません。知球モデルは、経験、実験の「積み重ね」という事をその有効性の論拠にいれたとたん、「積み木モデル」になのではないか?また、「知球モデル」のみを行なう事は、今の現在、ここに在る事のみを扱う事になり、過去の記憶とか、類推の余地がないのではないのでしょうか?もし、積み木モデルには不安があり、純粋な知球モデルにはないのだとしたら、不安という苦を解消するには純粋な知球モデルを実践し続ける必要があるようだが、はたしてそれはどのようになされ、いったい可能なのか?
また、科学は不安の解消という点でほぼ何もしておらず、人間の愚行も減ってはいないわけだし、道具ばかり増えて使う側の人間は記憶力も思考力も感受性も何もかえって衰えているように思え、科学信仰もキリスト教と変わらないし、根っこは同じだと思います。
……「究極的真理」がわたしたちに求めるものは、信仰という名の賭にすぎません。この一連の結論の欠点は、佐倉さん自身がいろいろ考察したり、考えたりしている動機を考慮していない事であると思う。はたして、「究極的か現在の局所的か」はともかく、佐倉さんが考えたりしなくてはいられないのは、「真理」を欲しがっているからではないのでしょうか?そして、その真理は「確か」なものでなくては嫌だからなのではないでしょうか?また、積み木モデルを言葉の上では否定しようとしていますが、実際には「知球モデル」の「積み重ね」という、積み木モデルまがいの姿勢を示唆しており、御自分で否定しようとしている「究極的真理」または「全体的な知」を実は切望しているのではないでしょうか?それに、ニュートンにせよ、アインシュタインにせよ、哲学者にせよ、彼らが考え、いろいろなモデルを提唱した背景には、その場その場の「知球モデル」を実践できず、「積み木モデル」の路線で「究極的真理」を求めた結果なのではないでしょうか?
もし、以上の推論が正しければ、佐倉さんは自分が考えている動機と、その結果結論として得られた姿勢の矛盾に陥っているように思えるのです。また、もし、結論が覆し難いのであれば、「知球モデル」の純粋なる実践をさっそく行なう努力を始める必要があるのではないかと思います。
佐倉さんの姿勢は本当はどうなのでしょうか?現在は「知球モデル」のつもりで「積み木モデル」を続けているように思えます。さらには、我々が「真理」などを求めてしまう背景には「良くありたい」という衝動があり、それは「生き延びたい」という衝動から来ているように思え、「なぜ、考えてしまうのか?」と考えると、「確かな行動規準」を求めてのように思えます。
もしこの考察が正しければ、せっかくいろいろ考えて、結論を出しておきながらそれを行為として実践しなかったり出来ないのであれば、もう一度考え直す必要があると思えるのです。少なくともニュートンの理論の場合、地球上でのかなりの分野と、月へ行くくらいの範囲内であれば、実践が可能でしたが、アインシュタインはそれだけで満足できずに実践の範囲が広がる理論を打ち出しました。真理の探究という事も、同様に、根拠が必要でないと結論づけるなら、根拠の正当性の検討抜きに理論の実用的正当性が無い以上、論理的思考を完全に放棄して生きられるのか自問する必要が出てこないでしょう か?
cloma
8月30日
ご批判ありがとうございます。わたしの説明が不十分だったために、いくつかの誤解があるようにおもわれますが、ご批判をいただいた部分に関して、もう少しくわしい説明を加えてみたいと思います。
(1)言語と事実について
わたしが、事実に依存しないで真理であると決定できる例としてあげた
もし昨日雨が降ったのならば、「昨日雨が降ったのだ」という言明は正しい。という言明の真誤の決定は「過去の事実の記憶」などに依存してはいません。もしこの言明の真誤が、過去の事実の記憶に依存しているならば、この言明が誤謬となり得る「過去の事実の記憶」の反証例を一つでもあげることができるはずです。しかし、それは絶対できない、とわたしは思っています。なぜなら、この言明は誤謬になる可能性のない文の形式を持っているからです。つまり、
もし A ならば A 。という形式を持った文は、「A」の内容に係わらず常に真理なのです。たとえば、「A」のところに、「橋本龍太郎はアメリカ人である」を挿入しても、また、「橋本龍太郎はアメリカ人ではない」を挿入しても、この文は真理なのです。
このように、文が形式のみによって、真誤を決定できるのは、言語には規則(約束事)というものがあるからです。言語に規則があるのは、言語というものがコミュニケーションの道具だからであり、規則がなければ、コミュニケーションが成立しないからです。たとえば、「赤信号のときは渡ってはいけません。青信号のときは渡ってもよろしい」というとき、わたしたちは、「赤信号は赤信号」であり、「青信号は青信号」であることを当然のことととし、それに対して、「赤信号は青信号」であるとか、「青信号は赤信号」である、という解釈を許しません。そうでなければ、コミュニケーションそのものが成立しないからです。
「赤信号は赤信号」とか「もし A ならば A」のような同語反復を真とする規則は、通常「同一律」などと呼ばれていますが、それは、わたしたちの言語そのものを成立させている基本的な規則なのです。cloma さんが投書によって、言葉を使って誰かに語りかけるとき、当然、cloma さんもこの同一律の規則を前提にされているのです。そうでなければ、他人に語りかけようとするはずもないからです。言明が文の形式のみによって真であると決定できるのは、その言明が言語の規則そのものを端的に表現しているからであって、「実用性を失い言語的な遊び」として無視できるようなものではありません。それどころか、同語反復の言明を無条件に恒真とする約束事があってはじめて、言語というものは事実について語ることができ、実用性をもつと言うべきでしょう。
(2)「個人的真理」について
真理は個人的・主観的なものではあり得ません。真理が個人的・主観的なものではなく公共的・客観的なものであるのは、すでに説明したように、真理は、共同体のコミュニケーションの道具としての言語の世界に存在するもの(「真なる平叙文」)だからです。もし真理が個人的なものであるならば、たとえば、
いま、午前九時です。という言明が、個人ごとに、真であったり誤謬であったりする可能性を認めることとなり、テレビの番組リストも、始業時間や終業時間も、電車やバスの時刻表も、あらゆる私的あるいは公的約束事は無意味となってしまい、人間社会は瞬間的に崩壊してしまうでしょう。つまり、真理を個人的なものと考えた瞬間に、わたしたちの共同体を支えている言葉の意味はすべて失われてしまうのです。このことは、言葉に意味を持たせているのは真理の公共性・客観性であることを示唆しています。わたしたちは、言葉を使用している限り、真理の公共性・客観性をすでに前提にしているのです。したがって、真理は個人的・主観的なものではあり得ません。
(3)思い込みと追体験について
さて、真理が公共的・客観的なものであるとすると、個人の思い込みにすぎないものは真理ではあり得ません。そして、残念なことに、「追体験」のようなものでは、その体験内容に関する判断が真理であることを保障することはできません。なぜなら、わたしが彼らと同じ内容の夢を見たと判断しても、そのことによって夢の内容が現実の真相である、などとは言えないように、たとえ、わたしが、西田や鈴木大拙と同じように、「主もなく客もない」というような経験をしたと判断しても、それは、わたしも、彼らと同種の思い込みをしているにすぎないのであって、とても、それが真理であることの保障にはなりません。
科学的実験などと違って、「主もなく客もない」という判断が真理ではなく、たんなる個人的な思い込みにすぎない、と言えるのは、それが公共的・客観的ではないからです。たとえば、沢山の人のいるレストランのなかで、わたしが、「わたしとわたしの目の前にあるテーブルは一つである」という体験するとき、同時に、まわりにいる人たちにも、わたしとわたしの目の前にあるテーブルが、分けることのできない「一物」として見えているのでなければ、わたしの「わたしとわたしの目の前にあるテーブルは一つである」という判断は公共的・客観的とはいえません。追体験のように、各自別々にそれぞれの「一体感」を経験することしかできず、同時共有できないような体験では、わたしたちは、結局、似たような別々の夢を見ているにすぎないと言わねばなりません。「主もなく客もない」という判断が、公共性・客観性を欠いた、純粋に主観的な思い込みにすぎないことは明らかです。
(4)積み木モデルと知球モデルについて
積み木は土台がなければなにも積み上げられないというイメージから、「積み木モデル」によって、知識には「究極的根拠」が必要であるとする見方を代表させ、それに対して、無知空間に囲まれた、足がかり(土台=究極的根拠)がない、宙ぶらりんの小さな知識の固まりというイメージから、「知球モデル」によって、「究極的根拠」を前提としない知識の捉え方を代表させましたが、おそらく、わたしの説明不足のため、積み木モデルと知球モデルについては、cloma さんはほとんど完全に誤解されていて、この部分は応答するのが困難です。そこで、ここでは、むしろ、誤解のいくつかを指摘して、わたしの説明不足を補充したいと思います。
誤解の最大の原因は、わたしの「真理の究極的根拠」という概念を「確実な真理」と同意義に捉えられているからではないかと思います。わたしの説明不足だったと思いますが、「真理の究極的根拠」とは次のようなものを意味しているのです。ある言明が真理であると確実に決定されるためには、根拠の提示を必要としますが、その提示された根拠そのものが認められるためには、その根拠の根拠の提示が必要となります。このように、根拠の根拠をさかのぼることによって、それ以上の根拠を必要としない最終的な根拠(デカルトの「第一原理」や西田幾太郎の「すべての独断を排除し、最も疑いなき直接の知識」やキリスト教の「神の言葉である聖書」)にたどり着くとします。その場合の、最終的根拠のことをわたしは「真理の究極的根拠」と呼んでいるのです。だから、たとえば、ニーチェのデカルト批判は、デカルトの主張が確実ではないという指摘にあったのではなく、デカルトの主張は前提を必要としない究極的な真理(「第一原理」)ではない、という指摘にあったのです。
そういう「真理の究極的根拠」という考え方に対するわたしの批判は、たとえば、「真理の究極的根拠」はそれ自体が(いわば、第一原理であるために)それ自身の根拠を持たない、それゆえに、それを受け入れるためには、根拠の提示を必要とする知識ではなく、信仰によらざるを得ない、というものだったのです。つまり、わたしは「根拠」を否定したのではなく、「究極的根拠」を否定したのです。同様に、知識の「積み重ね」を否定したのではなく、知識の積み重ねのためには「究極的土台」が必要である、という主張を否定したのです。また、「確実な知識」を追求することを否定したのではなく、「確実な知識」の追求は、ある「究極的な知識」に依存しなければならない、という主張を否定したのです。ですから、たとえば、
知球モデルは、経験、実験の「積み重ね」という事をその有効性の論拠にいれたとたん、「積み木モデル」になのではないか……とか、
積み木モデルを言葉の上では否定しようとしていますが、実際には「知球モデル」の「積み重ね」という、積み木モデルまがいの姿勢を示唆しており……というふうなご批判は、「真理の究極的根拠」の意味に関する誤解から生まれたもので、「知球モデル」の批判になっていないのです。
また、実際、わたしたちの日常生活のなかでわたしたちが知識と呼んでいるものは、デカルトの「第一原理」や西田幾太郎の「すべての独断を排除し、最も疑いなき直接の知識」やキリスト教の「神の言葉である聖書」のような、「真理の究極的根拠」の土台の上に築かれているものではありません。わたしたちの知識というものは、そんな「究極的土台」の上に積み上げられたものではなく、わたしたちが直接目で見たり手で触れたりする経験から始まって、技術(顕微鏡や望遠鏡や火星探索機など)の発展によって、拡大・蓄積・修正されてきたものです。それゆえ、わたしたちの知識はわたしたちの経験の限界によって条件づけられており、そのため、わたしたちの知識の確実性も条件的なものです。知識とはそんなものであって、無条件的に真理であることを豪語する「真理の究極的根拠」などという代物は、一握りの形而上学者や宗教家が造り上げた無用の概念にすぎない、ということを主張したのです。
(5)真理を求める動機について
わたしはさまざまな主張が真理であるかどうかについてはしばしば興味を持ちますが、真理を求める動機については、あまり興味がないので、ほとんど考えたことがありません。cloma さんのように「良くありたい」とか「生き延びたい」とか「確かな行動規準」を求めているがゆえに、真理を求めているというのは、そういうこともあると思いますが、それだけではないと思います。「知りたい」というような欲望は、かならずしも他の欲望を満たすための第二次的な欲望ではなく、むしろ、もっと基本的な人間の欲望の一つではないか、とわたしは思います。アリストテレスは、「人間は生まれつき知ることを欲する」と言いましたが、わたしはその言い方のほうが事実をよりうまく言い当てているような気がします。なぜなら、人間は、わたし自身を振り返ってみても、興味本位に、結末を考えることなく、端的に「知りたい」と思うことが多いからです。それに、身の危険を犯してまでも、あるいは損をするとわかっていながらも、それでも知りたい、というような事態さえ起きることを考えてみますと、知ることが単なる手段ではなく、それ自体目的にもなりうるのだと思われるのです。
お便りありがとうございました。
佐倉 哲