拝 啓 佐倉様
先日(5月10日)突然お手紙を差し上げた「かんたろう」 です。
あの時はあなたの論文を拝見し、驚きのあまり、名前も名乗らず夢中で手紙を打っ てしまいました。 大変失礼しました。 今日、懇切なお手紙をいただき、感謝いたします。なにか私の手紙が文字化けしてい たようですが、 あなたの返信は私の意を充分に汲んでいただけたようでした。これにも感謝いたしま す。
ところで、甚だぶしつけながら、この手紙に添付した私の経験をご一読いただけれ ば幸甚です。 私の、十八歳のときの経験ですが、日記風に個人のものとして書いてあるものを、抜 粋してみました。 人の日記など読む気になれないものですが、今回、あなたのような方を知り、私の経 験がどういうものなのか、 忌憚のないご意見なり、ご忠告なりをいただけたら、私の考えがもっと(?)しっか りしたものになるような気がします。
「日記」を書いたときには、先入観念は一切入っていないと思っています。 ただ、十六歳のときに交通事故で片足をなくしたときに誰かが「聖書」をくれまし た。 子供の頃から本(物語)ばかり読んでいましたが、聖書の影響が全くなかったかと言 えば少し疑問符をつけたくなりますね。 ですので、聖書を真剣には読まなかったものの、頭のどこかに「神」的なものがな かったとも言いきれません。
また、中学二年のときに吉川英次の「親鸞」を読み、傾倒しました。 同じ頃、島崎藤村の「破戒」を読み感動しました。 私を「診て」いただくため、私の経歴を簡単に書かせていただきましたが悪しから ず。 医者が患者を診察するために必要だと思っていただけたら有り難いのですが・・・
また、日記に書いてある当時、私は交通事故に遇い、片足をなくしたことで、人間 (存在)の不思議を気にしていました。 「片足をなくしても生きているということは、いったい人間はどこまで要らないもの を持っているのだろう。 逆に、人間にとって必要なものは何なのだろう」 ということです。 こう言う事ばかり考えていたようなときです。その時に父の死にあったと言うことも ご教示の参考資料にしていただけたらあり難いのですが・・・・
以上のこと以外、それまでに宗教や哲学の本は一切読んだことがない、というのは事実です。
私は、ですので、今のいままで、直感的に「日記」の中身を「自身で」知ったと思っ ています。 その後、カントやショーペンハウエルを読んだところ、「物自体」と言う言葉が出て きましたが、 私はこれに非常に興味を持ちました。なにか、自分の経験が証明されたような気がし たのです。 これについてもお教えいただけたらと思います。
「神」の概念はどうしても無理があります。 かといって仏教の「無」も今ひとつ判然しません。 まさに中有をさまよっていま す。 しかし、あなたの「縁起論」を拝読し、すこ〜しだけわかってきたような気もします (まだかな・・)。 あなたの論文のひとつひとつをお尋ねも出来ませんし、私の考えを余すところなくお 伝えするのも不可能です。 もっとも、私に「考え」などありませんが。 私の不行き届きはお許しください。
少し気になるのは、私が仏教を勉強しようと思っているわけでもなく、いきなり勝手 なことを書くのも、あなたに大変 失礼なことだということです。この点、どうぞご寛恕くださいますよう。 最近、何かを書いてみたくて、お寺のことを知ろうと思ったのが仏教の本を手にした きっかけでした。 そのなかに唯識論という言葉が出てきまして、年来、意識というものを気にしていた 私の興味を誘ったのが、 あなたの論文にたどりつくことになりました。 仏教のぶの字も知らない者が、貴重なお時間を割かせることに心が痛みます。
* 人間には、現在しか見えないのだから、そしてその範囲でしか判断・理解ができ ないのだから、見えないことや理解を超えたことを議論したり、推理したりすることは何の意味もないこれはSFです。空想の産物です。* 質量因・補助因は、三次元と理解していいのでしょうか。それを取り除いたら、ものは存在しません。したがって認識の対象から消えたも のについては人間の理解・認識範囲を超えます。
* それでもなお、結論を出したがるのも人間の悪い性癖です。そこに神様が登場す るのでしょう。
以下は「感想」を読んでの感想です。
最後に、
* 意志と原因を分けられたのは驚きです。 私自身、双方をごっちゃにしていた嫌いがありました。しかし、意志が原因だった としたらどうなるのでしょうか。大変失礼いたしました。 全く勉強していない者が口幅ったいことをつらつら述べ立てましたことをお詫び申し 上げます。 できれば、あなたのお力で少しでも物の本質に近づけたら、私はどんなに歓喜するで しょう。 よろしくお願いいたします。 差し出がましいところがありましたらご容赦ください。* 固執しますが、実体(意志・自性)と、もの、とは区別してはいけないのでしょう か。 意志(自性)と「もの」とを分離しないと釈然としないのです。
* 「無」からはなにものも生じない、というのを説明してください。 存在がなぜ存在したかを問うのは無意味なのでしょうか。何となく分らないでもな いのですが・・
* 在るとも無いとも言えない、というのはそれ以上の解釈は無いのでしょうか。 と言うのは、在ると無いの中間を私は考えなくてはならないからです。
1.意志が原因だったとしたら?
意志と原因を分けられたのは驚きです。私自身、双方をごっちゃにしていた嫌いがありました。しかし、意志が原因だったとしたらどうなるのでしょうか。もし「意志が原因だったとしたら」というふうな前提をすると、かんたろうさんがもともと言いたかったことに説得力がなくなって、元も子もなくなります。
そもそも、かんたろうさんは、「ものが偶然に(原因なくして)存在として現れるということは考えられない。だから、ものを存在あらしめた意志(原因)がなければならない」というようなことを言いたいのです。この主張が、一見、説得力を持つように見えるのは、人間はだれでも因果関係を信じているという暗黙の前提があるからです。つまり、かんたろうさんの主張の論理的構造は次のようになっています。
(1)前提1:すべてには原因がある。(常識。暗黙の前提) (2)前提2:ものが存在として現れている。 (3)結論:ものを存在として現わした原因(意志?)がなければならない。前提1は、人間はだれでも因果関係を信じているために、わざわざ言う必要のない暗黙の前提でした。だから、かんたろうさんは、前提2からその結論に直行されているのです。それはそれでよかったのです。
ところが、いま、前提1を、「意志が原因だったとしたら」というふうに限定すると、この論理的構造はがらっと変わります。
(1)前提1:すべてには意志の原因がある。(常識?) (2)前提2:ものが存在として現れている。 (3)結論:ものを存在として現わした意志がなければならない。こうなると、前提1はもはや常識ではなくなります。前回も述べましたように、だれかさんの頭に傷があるという事実の原因は、意志である場合(「わたしが殴った」)もあれば、意志でない場合(「リンゴが木から落ちた」)もあるからです。常識でなければ暗黙の前提として済ますわけにはいきません。人類の前で、ちゃんと誰もが納得するように、「すべてには意志の原因がある」ことを、先に証明しなければなりません。
そうでなければ、「もし<意志の原因がある>と仮定するなら、<意志の原因がある>という結論が出る」というくだらない主張になってしまうからです。証明すべきことが、前提に繰り込まれてしまっているので、何の証明にもなっていないのです。
かんたろうさんは、「双方をごっちゃにしていた嫌い」があったために、結論のところで、いつのまにか、原因が意志にすり替えられてしまっていたのです。こういうふうになるのは、もともとそういう結論を出したかったからだろうと推測します。
(注:言うまでもないことだとは思いますが、もし、前提1を、「すべてには原因があるが、その原因は意志である場合と意志でない場合がある」ということにすると、欲しかった「ものを存在として現わした意志がなければならない」という結論は帰結しなくなります。)
2.意志とものとを分離しないと釈然としない?
固執しますが、実体(意志・自性)と、もの、とは区別してはいけないのでしょう か。意志(自性)と「もの」とを分離しないと釈然としないのです。どうしてですか。わたしたちの全経験は、ひとつの例外もなく、<もの(人間)から分離した意志>などという状態をまったく知りません。また、そんな分離の論理的必然性も知られておりません。つまり、わたしたちの経験的論理的知識のすべては「意志とものを分離すること」に反しています。
したがって、「釈然としない」という感情は、認識論的に生まれたものではなく、実存的要請として生まれたものに違いありません。実存的にとは人生論的にという意味です。つまり、「釈然としない」というのは、かんたろうさんの人生の願望・欲求を満たすためにそれでは満足できない、ということを言っているにすぎないのでしょう。
もう一度よく考えてみて下さい。本当は、もし「ものから分離した意志」が真実であれば、かんたろうさんの人生はなにか得をするのではありませんか。「そうあって欲しい」から「そうである」という結論に飛躍していませんか。
おそらく、「原因」と「意志」をごっちゃにしているのと同じように、「事実はどうなっているか」という認識論的問題と、「自分の人生がどうあって欲しいか」という実存的問題がごっちゃになっているのだとわたしは想像しています。認識問題(事実問題)と人生問題(願望問題)を区別すれば、自分の認識の届かない領域に関して自分の人生に都合の良い解釈を押し付けることはなくなり、「釈然としない」感情もすぐ解消されることでしょう。
3.存在がなぜ存在したかを問うのは無意味なのでしょうか
「無」からはなにものも生じない、というのを説明してください。存在がなぜ存在したかを問うのは無意味なのでしょうか。何となく分らないでもないのですが・・わたしは、「無」からはなにものも生じない、と言ったのではありません。そうではなく、存在しているものは、もともと存在していないものから、存在するようになったものである、という主張が事実である根拠はない、と言ったのです。また、存在がなぜ存在したかを問うのは無意味である、と言ったのでもありません。そうではなく、存在しているものは、もともと存在していないものから、存在するようになったものである、という前提から始めると、論理に説得力がなくなる、ということを言っているのです。自分の都合の良い結論を引きだすために、事実かどうかわからない主張を秘かに前提に持ち込んでいるからです。
大切なところなので、ご迷惑かもしれませんが、もういちど繰り返しておきます。
これらの考えの中にある、最も大きな問題は、「存在が形あるものとして現れる」(わたしの場合は「ものが存在として現れる」)という表現の中に含意されている暗黙の前提にあります。すなわち、「形あるものとして現れる」(あるいは「存在として現れるようになる」)という表現の中には、実は、「もともと形のないものが、形あるものとして現れる」(あるいは「もともと存在していなかったものが、存在として現れるようになる」)という意味が暗黙のうちに含まれています。要するに、「存在として現れている」とか「形あるものとして現れている」という曖昧な言い方の中にごまかしがあるのです。その言い方は、一見、「ものが存在している」「ものには形がある」と言っているようにも思えますので、聞く者は「あたりまえじゃないか」と、つい、受容しやすいのですが、実は、語る者は、そこに、「ものが存在する前には存在していない、形のない状況があった」という意味を秘かに組み込んでいるのです。「ものが存在している」とか「ものには形がある」というのは、わたしたちの目の前の事実であり、当たり前ですが、「ものが存在する前には存在していない、形のない状況があった」というのは、当たり前のことではありません。わたしたちはそんなことは知りません。もし、このような意味が含まれていないとしたら、それらは、単に「形あるものが存在している」(あるいは「ものが存在している」)という意味に過ぎなくなり、そこからは、「形のない何か(意志)がなければならない」とか、「存在たらしめた原因がある」などという結論は引き出せなくなります。したがって、このような結論を引きだすためには、やはり、「もともと形のないものが、形あるものとして現れる」(あるいは「もともと存在していなかったものが、存在として現れるようになる」)ということが前提に含まれていなければなりません。
ところが、暗黙のうちに含意されていた隠された意味を、言葉であらわに表現して、その主張を誰の目にもはっきりとわかるように日の下にさらしてみると、この主張が深刻な欠陥を持っていることが明らかになります。なぜなら、はたして、形あるものは、もともと形のないものから、形のあるものになったのかどうか、あるいは、存在しているものは、もともと存在していないものから、存在するようになったのかどうかは、まったく明らかではないからです。むしろ、わたしたちのすべての経験と観察は、すでに存在しているものが変化するという事実だけです。「もともと形のないものが形を持つようになった」とか、「ものが存在する前には存在していないという状況があった」などという主張は、事実ではなく、たんなる勝手な憶測に過ぎません。
つまり、「存在が形あるものとして現れる」という表現には、都合のよい結論を引きだすための、事実ではない、たんなる憶測に過ぎない「もともと形のないものから」という意味が、密かに持ち込まれているわけです。結論がはじめからひそかに前提の中に埋め込まれているのです。論理のごまかしがここにあるのです。
(前回より)
かんたろうさんの結論が正しいか否かは、明らかに、この当たり前でない前提が正しいか否かに依存しています。当たり前の前提なら説明を必要としませんが、当たり前でない前提なら、論議者は、その前提が正しいことを、その論議を始める前に、人類の前で証明しておく義務があります。かんたろうさんはこの義務を怠っているのです。
それはなぜかというと、かんたろうさんは、「ものが存在している」と「ものが存在として現れている」をごっちゃ混ぜにしているからです。そのために、この前提が当たり前でないのに当たり前のような気分になっておられたのです。つまり、「原因」と「意志」ごっちゃ混ぜにすることによって、「目には見えない意志が存在する」という都合のよい結論を導きだすことができた(と誤解された)のと同じ種類の論理のごまかしが、ここにもあるのです。
論証において、結論が相手に説得力を持つためには、前提が相手にも同意されるものでなければなりません。たとえば、人間はだれでも因果関係を信じていますが、「その原因が意志でなければならない」などという主張は、誰でもが認めるような説得力を持つものではありません。また、人間はだれでも、ものが存在していることは認めるでしょうが、「ものは存在していなものから存在するようになった」などという主張は、誰でもが認めるような説得力を持つものではありません。誰でもが認めるような客観的な説得力のある前提から導出した結論でなければ、結論がその前提の正しさに依存しているかぎり、その結論にはなんの説得力もないのです。
4.最後の質問
在るとも無いとも言えない、というのはそれ以上の解釈は無いのでしょうか。 と言うのは、在ると無いの中間を私は考えなくてはならないからです。ここでは、なにを言わんとされているのか、よくわかりません。