ホームページを興味深く拝見させていただきました。 ところで、仏教やウィトゲンシュタインのように、 哲学が哲学を否定するような論調になったのはいつ頃からでしょうか。 そういうんじゃない哲学の例みたいなものは挙げられるでしょうか。 よろしくお願いします。

哲学が哲学を否定するような論調になったのはいつ頃からでしょうか。

ブッダが、「比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである。悪しき教え(非法)ならばなおさらのことである。 (マッジマ・ニカーヤ 22) 」と語ったとされるのは、いまからおよそ二千四百年前です。

「哲学の義務は、誤解から生じたまやかしを除くにあった。たとえその際、いたく賞賛され愛着されている虚妄が破滅しようとも、それはわたしの意とするところでなかった。 (『純粋理性批判』)」と語ったカントは今からおよそ二百年ほど前の人でした。

「ツァラトストラより自己をふせげ! さらになすべきは、ツァラトストラを恥よ! われはなんじらを欺いたかも知れぬではないか。 認識の人間は、ただにその敵を愛するのみにはあらず、さらに、その友をも憎みうる者たるを要する。」とツァラトストラに語らせたニーチェは一世紀前の人です。

「真理の確立のためには、しかしながら、親しき[哲学の師(ソクラテス、プラトン)]をも滅することがむしろよいのであって、それがわれわれの義務であると考えられるであろう。殊にわれわれは哲学者・愛知者なのであるから。(『ニコマス倫理学』)」と語ったアリストテレスは二千三百年ほど前の人。

「哲学の正しい方法とは本来、次のごときものであろう。語られうるもの以外に何も語らぬこと。ゆえに、自然科学の命題以外何も語らぬこと。ゆえに、哲学となんのかかわりももたぬものしか語らぬこと。(『論理哲学論考』)」と語ったウィトゲンシュタインは半世紀前の人です。

どの時代であろうと、哲学が<真実を知ろうとする営み>である限り、自らのうちに自らの主張の正当性を吟味しようとする自己懐疑の契機を含むのはあたりまえのことではないでしょうか。

そういうんじゃない哲学の例みたいなものは挙げられるでしょうか
自らの教えを疑うことを禁止する教え、たとえば、幸福の科学の大川さんの教えとか、「聖書は間違いのない神の言葉である」と信じるキリスト教原理主義などがあげられるでしょうが、幸福の科学やキリスト教の教えは「哲学」(真実を知ろうとする営み)とは呼べないでしょう。かれらは、正しいかどうかという吟味の上で主張しているのではなく、自分の救いに都合が良いというだけで、かれらのドグマを「真理」と呼んでいるにすぎないわけですから。

哲学者と呼ばれている人のなかでは、デカルトなんか、「そういうんじゃない哲学の例」としてあげられるかもしれません。かれは、疑っても、疑っても、どうしても疑いきれない、自明の真理を発見したと主張したからです。すなわち、「我思うゆえに我在り」です。疑っているかぎり、疑っている自分が存在していることは、絶対に間違いない、と主張したのでした。こうして、この「自分は存在している」、という第一命題から出発して、「自分は存在しているのだから、神は存在していなければならない」と論証(?)しました。

鈴木大拙や西田幾多朗およびその後継者たち、いわゆる京都学派の哲学者たちも、「そういうんじゃない哲学の例」に入るのではないでしょうか。かれらも自らを疑うことの価値を認めませんでした。かれらは、臨済禅の影響から、真実は「純粋経験」とか「直覚的経験」で得られるものだ、というようなことを主張したからです。人間の分別(たとえば疑う行為)以前の真実の姿をそのまま純粋な形で経験するのが大切だ、というわけです。そこに、疑うなど、分別を加えた途端に、真実の姿を損なう、というわけです。したがって、かれらの最終的主張は、始めから、懐疑の対象から外されているのです。こうなれば、単なる<個人の勝手な思い込み>と<真実>との区別は不可能となりますから、これも、哲学というよりも、信仰と言うべきものでしょう。