はじめまして

おもしろそうなホームページですね。

さっそくですが本題です。 言の葉26で岸田さんの文章をとりあげられてますが、あの説で僕自身の性格神経症が かなりつかめました。(まだふりまわされてるけど) とても重要なヒントになりました。

それから岸田さんの説を評論してるページのいくつかあるなかで、おすすめ したいのがあります。(すでに ご存知かもしれませんが・・・) http://www.ne.jp/asahi/web/kazu/index.html ちょっと見てください。

芥川龍之介と坂口安吾の下に その他 ってのをクリックすると 岸田さんの項目があります。これ読んで思いました。 岸田唯幻論は「とんでも本」だったのかということです。 世界のとんでもさんたちがエーテル病になって とんでも本を書いたように、 岸田さんも フロイト病になって一連の著作集を出し続けてるようなのです。

・・・毒をもって毒を制す。 ・・・型から入って型から抜ける。 義理だてして生きるのは終わったのだ。

それから岸田さんの説を評論してるページのいくつかあるなかで、おすすめしたいのがあります。・・・これ読んで思いました。岸田唯幻論は「とんでも本」だったのかということです。

おすすめの論文「岸田秀―唯幻論とは何か」を読ませていただきました。この文に関しては、書いたご本人が次のように紹介しておられます。

この文章は大分前に書いたまま放っておいたものですので、内容は納得のいかないものになってしまいました。しかし、当サイトを開いた時に最初にアップした文章ですので何かの記念に(?)残してあるものです。

書いたご本人が「内容は納得のいかないものになってしまいました」と言われているモノをいまさら「納得がいかない」と批判しても始まりませんが、一応、読んでしまった記念に(^^)、なぜこの方の岸田批判が「納得がいかないものになってしま」っているのか、わたし自身の感想をいくつか述べておきます。

(1)岸田理論はフロイト理論と違うの?

この文の岸田批評の一つは、岸田理論はフロイトのそれを継承するものだというが、岸田理論とフロイトの理論とは異なっている、というものだと思います。たとえば、フロイトとの違いを示そうとされるところで、

氏は「エスは単なるエネルギーの貯蔵庫であり自我がそのエネルギーの統御を担っている」と言うのだから厳密には両者が判然と区別される二層構造とは言えないだろう。自我が自我として、エスがエスとして動き対立するものではないからだ。従って、ここでも自我とエスの区別は曖昧であり、むしろ両者は一体なのである。氏の考えによれば、超自我は自我の規範的側面だし、エスは(自我のエネルギー供給源としての)実体的側面ということになる。結局、岸田心理学は自我だけを考える一元論だ。

と言われています。しかし、フロイトにしても、超自我・自我・エスは本質的には一つのものです。「自我とエスの間には明瞭な境界はなく、自我は下の方でエスと合流している」のであり、「自我とエスの区別をあまり固定的に考えてはならない」といいます。なぜなら、「自我とはエスが特別に差別化したものに他ならない」(フロイト『自我とエス』)からです。

後期において考えだされた超自我にしても、「自我の中に一つの段階を想定し、自我の中において差別化が行われ、自我理想または超自我と呼ぶ部分を想定した」(フロイト『自我とエス』)ものにすぎないわけであって、自我というものの内部を、あえて、さらにわけて考えてみれば、それ以外の部分と区別できるある特殊な性質(フロイトの言葉で言えば、「自我における特別な審級」)を抜き出すことが出きる、ということにすぎないわけです。その点においては、岸田が「超自我と呼んだものを自我に含めており」といわれる立場と同じです。

このように、フロイトにおいても、超自我は自我の一部であり、また、自我はもともとエスの分化の結果ですから、かれの心的プロセスのモデルは、岸田と同じく、その本質において、一元論と言えます。

岸田が、フロイトが超自我という概念を持ち出して「わざわざ別の用語で自我と区別する必要はない」と考えておられる理由は、「自我そのものがすでに規範として機能している」からだと言います。(83頁)これは、フロイト自身の次のような主張とも合致しています。「自我は道徳的であろうとし、超自我は過度に道徳的」であろうとする、と。(「自我とエス」)

岸田はその多くの分析においてわざわざ超自我に言及することがない、というだけであって、否定されているわけではありません。それゆえ、この岸田の「取り扱わない」という立場を、「超自我のこの矛盾した性格は消去されてしまっている」と表現するのは正確ではないし、ましてや、岸田が超自我に言及される部分を見て「矛盾している」というのは明らかに間違っています。マクロ経済の専門家が通常ミクロ経済に言及しないからといって、ミクロ経済を否定していることにはならないし、また、たまにミクロ経済に言及するからといって矛盾するということにもなりません。


もう一つ例を挙げます。岸田のエスは「自我から排除され抑圧されたもの」であるが、「フロイトによれば、自我はエスが現実(外界)の影響によって変形させられたものだ」というような批評もなされています。

岸田氏は主に自我から排除され抑圧されたものとしてエスを考えている。・・・しかし、・・・フロイトによれば、自我はエスが現実(外界)の影響によって変形させられたものだ。・・・再び抑圧されたものとしてエスを捕らえる岸田氏とは異なり、フロイトにとっては、エスこそが人間存在の中心である。しかし、その中心とは「私(自我)」ではない。

これは単純な誤読です。もう少し丁寧に読めばこのような誤解もなかっただろうにと思われます。引用されている部分だけを読んでも、岸田は次のように明確にエスを定義していて、疑いの余地が無いからです。

わたしの定義によれば、自我とは、当人がこれが自分というものだと思っているところのものであり、エスとは、当人の生命存在全体のなかの、自我から排除されたもの、すなわち、当人の存在そのものでありながら、当人がこれは自分ではない、自分のものではないと思っているところのものである。(『幻想の未来』83頁)

すなわち、厳密に言えば、「生命存在全体」から「自我」を差し引いた残りがエスだ、ということです。「排除され」というのは論理用語、集合論用語であって、「差し引いた残り」という意味です。たとえば、「女性」を<人類全体の中から「男性」を排除したあとに残された集合>と定義することも可能なようなものです。自我というものが先にあって、その自我のなかから抑圧された部分がエスになる、などと岸田がエスを定義しているのではありません。

自我とは「当人がこれが自分というものだと思っているところのもの」ですから、自我でない部分、すなわちエスとは、排中律によって必然的に、「当人がこれは自分ではない、自分のものではないと思っているところのもの」ということになります。抑圧されたものは、それゆえ、当然、本人が自分ではないと思い込んでいるものですから、エスに所属します。フロイトも、抑圧されたものは「エスと合流する」と言っています(「自我とエス」)。

さらに、この方は、岸田がエスを「現実」としているということをもって、フロイドとの違いを示そうとされて

岸田氏は「エスこそ現実だ」と言う。(これはエスが現実に晒されて自我が生まれたというフロイトの説明からは転倒している考えである)しかしエスという現実は私的幻想に過ぎない。

と言われていますが、これは、おそらく、「岸田氏はフロイトと完全に決別する」理由を見つけたいがために起こってしまった半意図的な誤読だと思います。なぜなら、すぐその後に続く岸田の説明が完全に見落とされ、逆の意味に解釈されているからです。岸田は実はこう言っているのです。

エスこそが現実(ただし、現実とは言っても内的現実であり、この内的現実は人間の本能が壊れているため、外的現実からずれており、外的現実から見れば私的現実にすぎないが)であり、エスと対立する自我は、この〔内的)現実から見れば、幻想である。(84〜85頁)

つまり、岸田は、エスを「現実とは言っても内的現実」であると規定し、さらに、「外的現実から見れば私的現実」であると言っているにもかかわらず、「エスという現実は私的幻想に過ぎない」というふうに、「私的現実」という岸田の言葉がそれとはまったく逆の意味である「私的幻想」という言葉に勝手に言い換えられています。

岸田は外界の外的現実に比してエスを「内的現実」あるいは「私的現実」と呼んでいますが、フロイトも、同様に、「エスは第二の外界」と呼んでいます。(「自我とエス」)


(2)批判にならない批判

岸田氏が施した母親と自分の関係の分析は全て幻想であると私は思う。
こういった批判は岸田理論の批判にはなりません。なぜなら、岸田理論は岸田理論そのものが幻想であることを説明するものでもあるからです。
僕の説を非常に買いかぶって、盲目的に信じている読者がいるわけです。そういうのはえらい迷惑で、そういう読者には、岸田理論がいかにインチキであるか、を言うんですけどね。岸田理論がインチキであることを、岸田理論は明解に説明できる。

(岸田秀、『仏教と精神分析』、161頁)

唯幻論っていう以上は、唯幻論自身も幻想であることをまぬがれないわけで・・・。

(岸田秀、伊丹十三、『精神分析講座:哺育器の中の大人』、273頁)

また、

多分、フロイト理論など嘘だと言っていいだろう。少なくとも、あらゆる理論が虚構であり虚偽であるのと同程度には嘘である筈だ。理論は理論でしかない。それは当然だ。しかし、理論に現実の方を合わせようとした人間がいたとしたらどうだろうか。その理論は途端に現実味を帯びてくる。岸田氏の自己分析が完全に見えるのはその点においてだ。

といった批判も、同様に、岸田批判にはなりません。なぜなら、

僕の理論に合うように自分の成長過程を理解した

(岸田秀、『仏教と精神分析』、135頁)

ということが、まさに、唯幻論の本質だからです。

他にも、この方の岸田理解、フロイト理解に、気になるところが沢山ありますが、ご本人が「納得がいかない」と言っておられるので、このぐらいにしておきます。

基本的に、岸田理論にしても、フロイトの理論にしても、心のプロセスの解釈ですから、これを批判するのに、幻想か事実かという形での批判は成立しません。なぜなら、心のプロセスなどというものは、これがその事実だというような形で取り出すことはできないからです。これらの理論の評価は、結局のところ、その理論が神経症治療のために実際に効果を生みだすかいなかにあると思います。