こんにちは。ぼくはシガナイ学生です。恐れ多いですけども何か共感できることがあったのでおたよりでっす。

まだ21年しか生きてないのでたいした人生経験はつんでおりません。 が、物心ついたときからずーっと、この“幸せ”という言葉には人並みに悩まされてきたつもりでありまして・・・。たぶんそのときそのとき“理想の自分”ってあって、それと似ても似つかない“現実の自分”ってのがいてそのギャップに苦しんでいたのだろうと思います。でも今思うと仮にその理想の自分に今、なれたとしてその時自分が何の不自由もなく生きているだろうかと言ったら“幸せになりたい”って思う限り絶対そんなことないですよね。

僕の場合特に“劣等感”というものに執拗に苦しめられていたころがあって、今おもうと他人に対してというよりは“理想の自分”に対してだったような・・。まぁ単純に言うと全てをてにしたかったんでしょうかね。人が幸せって言うことができるのって結局全て、世の中のもの全部手中におさめた時だけなのかもしれないですね。でもそれって絶対ありえないじゃないですか。

今はとりあえず嫌なこともたくさんあるし何か大変そう(他人事か!?)だけど、まぁいいことが全くないわけじゃあないし、なるようになるさと・・・。だ、だめでしょうかー?

仮にその理想の自分に今、なれたとしてその時自分が何の不自由もなく生きているだろうかと言ったら“幸せになりたい”って思う限り絶対そんなことないですよね。

同感です。

それに、たとえ、わたしがどんなにひどい不幸を抱えているとしても、だからといって、わたしのやっていることやわたしの存在が人々にとって役に立たないとは限らない。むしろ、完全に幸福になっちゃった人は、完全に満足をしている人ですから、何もすることがなく、なにも創りださないのではないでしょうか。至福の人とはなんの役にも立たない粗大ごみではないでしょうか。

そしてまた、幸福になるかどうかということを心配すれば、やりたいことをやる自由も失われる。やりたいことをやれば、もしかしたら、不幸になるかもしれないと思って、やりたいことができない。幸福の追求はひとを束縛します。(そのことを知っている新興宗教は幸福を餌にして商売繁盛です。)

なぜ、「幸福になりたい、自分は幸福にならなくてはいけない」などと自分をわざわざ苦しめるのか、わたしには理解できません。他人に迷惑をかけるならともかく、そうでなければ、幸福になろうが不幸になろうが、ただやりたいことをやっていればよい、とわたしなどは思います。