はじめまして、対馬純平(ツシマジュンペイ)と申します。

今日、はじめてあなた様のホームページを拝見致しました.大変貴重な情報がたくさん詰まっていると想います。時間をかけて勉強させていただきたいと想います。ありがとうございます。

ある時、強い強い使命を観じ、それを最近ようやく言葉にできるようになりました。未熟ですが私の弟一歩です。文中「反物質」とあるのは物理学のそれとは異なると思います。 「真理提示」というテーマです。これを釈迦に説法というのでしょうが、勇気を出して、投稿させていただきます。あなた様のますますのご活躍、期待致します。


真理提示

この宇宙は「物質宇宙」である。観測する者も「物質」である。同時にこの宇宙は「反物質宇宙」である。観測する者も「反物質」である。この宇宙とすべてのものは「反物質」である。反物質である宇宙を反物質である者が観測すると、「物質」として観測される。 この宇宙には、ハッキリとした目的がある。風も、木も,人も、すべてのものはその目的を行うものである。前の宇宙でそれらのことが行われた結果この宇宙がここにあり、同じ事をこの宇宙で我々が行うのである。

この宇宙には,始まりがありそして終わりがある。その事を過去数えきれないほど繰り返し、この宇宙が終わった後も数えきれないほど繰り返す。それらの時間は、今の我々には推測不可能なほどの長い時間である。そして、そのつど宇宙は進歩していく。 この宇宙は,有限である。同時に無限である。それは、 均一で海だけの地球にいる、いかだに乗った者のようである。いかだから見える海は限られている。その者にとって、そこが海の果てである。何とか海のはてまで行ったとしても、同じく海の果ては遠くにある。海は有限であるが、いかだに乗った者には無限である。 この宇宙の我々も、このいかだに乗った者に似ている。この宇宙を出て、外からここを観測する事は不可能である。 ここから出た瞬間、ここのものでなくなり、ここが見えなくなる。

種がある。この種には「芽を出し、葉を出し、花を咲かせて、種を成す」という事が「プログラム」されている。種が行うそれらのことは観測可能である。しかし、その「プログラム」を観測することは不可能である。 我々にできることは、それを「感じる」ことだけである。この観測不可能なプログラム。しかし確かにあると確信できるプログラムを「反物質」と呼ぶ。

種にも、卵にも、人にも、すべてのものにあるその反物質を、見ることはできないが「観る」ことはできる。 その「観る」ことを「智慧」と呼ぶ。自分の存在を考察することは、真理を見つけることである。真理を見つけるには、観測不可能な「反物質の世界」を「観る」ことである。 「心」は、反物質の世界である。脳と言う物質を使って感じることができる。 脳がなければ「心」を感じることはできないが、だからと言って、脳が心だと言うことではない。心は「反物質」であり脳は「物質」である。 その「心」という「反物質」の世界と、この目の前にしている「この宇宙」とは同じである。 まったく同じである。違うのは、心宇宙は目的を成して完成された宇宙であるのに対し、この宇宙はまだ目的を観つけていない、始まったばかりの宇宙だというだけである。目的を見つけて、花を咲かせて種を成しているそれと、まだ目的を見つけていない種との関係に似ている。 「心」には、この宇宙で行うすべてのことがある。足らないものは何一つなく。余分なものは何一つない。 花はすでにないが、種の中にはすべて「ある」のである。観測不可能な心宇宙と、目の前にあるこの宇宙とは同じ種の中にある。種にたとえればそうである。

心宇宙と、この宇宙とは分かれてあるのではなく、同じこの宇宙なのだ。 花は死ぬが、プログラムは死なない。我々は、花であると同時にプログラムである。 花を咲かせて、種を成したそれは、「種に確かに伝えた」のである。 何万回と繰り返し、進化したすべてのものを、「確かに伝えた」のである。 花と、種との「確かな契約」である。

われわれが、感じることのできる「心」は、この宇宙の、「確かな契約」である。 青い空を「青い」と感じることができるのは心の成せる技である。愛を感じることができるのは心の成せる技である。欲望,痛み、絶望、恐怖・・・・。それらは、すべて心の成せる技である。風も、木も、花も、人も、すべてのものは、今観じているこの「心」そのものになるのだ。 今回、この宇宙で「人」という形をした、どの「プログラム」になるかを、どの「心」になるかを考察することは重要である。 「目に見えない世界」を観て、「目に見えない現実」を考察することは重要である。 耳は、自分を馬だと言う。尻尾も自分こそが馬だと言う。目も、鼻も、脚も、腹も、それぞれ、自分こそが馬だと言う。耳は、尻尾を馬だと決して認めない。 自分と違う尻尾を馬だと認める事は、それと違う自分が馬でなくなるので、耳は、自分と違うそれらを、攻撃、排除しようとする傾向になる。 これが信仰である。

耳は馬の一部であるが、馬ではない。そして馬には耳が必要である。 耳も、脚も、鼻も、尻尾もなければ馬は存在しない。それぞれが集まったものを馬というのである。 信仰は、真理を求めるものである。自分の信仰こそが真理であると言うのと、この耳は似ている。信仰者たちは、真理の一番そばにいて、同時に一番離れたところにいるのだ。それぞれの信仰は、真理の一部であり真理ではない。 自分の信仰が「真理の一部」である事を実感し、その上で真理を求めるなら、自分と違う、真理の一部である「違う信仰」を、自分のそれとまったく同じに大切にする。違う信仰がなければ、真理が見つからないからである。 人類が繰り返している、信仰の違いによる争いはなくなる。

長い間、多大なリスクを覚悟で守ってきた信仰。それぞれのその信仰を、本来の目的のために使うときが来たのだ。  この宇宙には、「その時」がある。種は時期が来るまで行動しない。行動する前に自分の目的を見つけるのだ。その目的を見つけるときが「その時」である。 種が「その時」の前に目的を見つけることはない。種の「その時」の前と、今のこの宇宙は同じである。我々は、わからない時と、わかる時のちょうど「その時」にいるのだ。今が、この宇宙の目的を見つける、この宇宙の「その時」なのだ。 「その時」をどれだけうまくクリアーするか、それでこの宇宙が決まる。 とてつもなく大事なときに私たちはいるのだ。

「その時」は、我々人類が行う。我々がそれをできなければ、ほかの者が行う。誰かがそれを行うのである。行う者がいなければ、この宇宙は目的を行えない宇宙として終わる。それは、種が芽を出さないで終わるのと同じである。   種は、「自然」に芽を出す。その「自然」をこの宇宙で我々が行うのである。 自然とは、この宇宙と同じ大きさの宇宙に、それを行う者たちが満ちて、それで「ある」ものなのだ。種が花を咲かせるという、たったそれだけのことは、とてつもなく凄い事なのである。

 この宇宙の、要(かなめ)のときに「ここにいる」ことを深く考えるべきだ。 今ここにいるすべての人は、この宇宙にとってとてつもなく貴重な存在である。 マザーテレサも、犯罪者もその貴重さは同じである。人のルールから見れば善と悪に分かれるが、この宇宙の「その時」を知るためには、貴重さはどちらも同じである。誰かがマザーテレサの役目をしなければならないし、誰かが犯罪者の役をしなくてはならない。それらがなければ、「その時」をクリアーできないのである。  犯罪者に対して、感謝の気持ちになれるのは、犯罪を良しとすることではない。ただ、「その時」をクリアーするためになくてはならないものであると認識するものである。マザーテレサに感謝するのと犯罪者に感謝するのはまったく同じである。その役目の目的は同じである。

それらのことを経験して、その時をクリアーできないのは残念な事である。時期が来ても芽を出さない種は残念である。それらの残念さは、それをできなかった者のものである。この次の宇宙でこれらの事をするための肥やしとするしかない。今、この瞬間が、「この宇宙」の「その時」なのだ。 人類は、いきなりスペースシャトルを作ることはできない。そのずうっと前にライト兄弟が、未熟な飛行機を造ったことからの、その延長で誕生するのである。真理提示を発表することは、この兄弟と同じである。未熟であることは承知している。これを見て感じる者が、次の進歩した真理提示を発表するのだ。

なにかを得るためには、なにかを犠牲にしなければならない。その時を観じて、それを行おうと想った者は、皆が大事にしているものから離れなければならない。それは、空を飛ぶことを進めているものが、地面を上手に歩くことをあきらめるのと似ている。 地面を上手に歩き、空も上手に飛びたいは、上手に空を飛ぶことの邪魔となる。「その時」を行うのはそのようなものである。 生命は、進化していくものである。今ここに在る生命はすべて進化してきたもの、又同時にその途中である。 進化するということは、今、もっとも大事にしているものを「ここ」に置いて行くという事である。百獣の王ライオンは、強い脚と、牙とその強さを捨てることができなった故に「あそこ」にいるのだ。食うことはあっても食われることのないとてつもない強さ。置いて次へいこうと言っても簡単に置いていけないほどの魅力である。

ミミズは、人間にとって悪い土を、良い土に変えてくれる。大腸菌は人間にとってなくてはならないものである。葉は酸素を作ってくれる。すべてのそれぞれが、自分の生きるという目的でそれぞれの場所で生活している。 しかし、彼らがこの宇宙の目的を見つけた上で生活しているわけではない。 それぞれ、自分のためだけのために生きているのだ。今の、人も彼らと同じである。  その、それぞれの生活が、それを意識していようがそうでなかろうが、この宇宙の目的を行う一部なのである。ミミズは、宇宙の目的などわからずに幸せに生活している。  この宇宙の「その時」にあり、目的を見つけないのは、真理を見つけないのは、このミミズと同じである。スペースシャトルに乗り宇宙に広がっていくミミズである。

 おこなったことは、そのまま自分に来る。今、この宇宙でその時を人として感じることができるのは、前の宇宙で、その又前の宇宙でと数えきれないほどの「前の私」が、がんばったそのおかげなのである。 先祖を敬うというそのことは、この「前の私たち」に感謝することなのだ。  「その時」を観じ、この宇宙の目的を見つけて、真理を悟ったものは、この大宇宙のそれぞれの場所へと行き、「知っている者」として思う存分に自分の仕事をするのである。  「私には関係ないことだ」と言うわけにはいかない。その者は、それを見つけられなったものとして「ここ」に残るのである。人とミミズはこのようなことを繰り返して分かれて行くのである。これらのことは、それぞれ、自分で決めることなのだ。  今後、目的を見つけて「そこ」へ行ったものから見れば、「ここ」に残ったものはミミズに見えるのである。おこなったことは、そのまま自分のものとなるのだ。

 人類が、力を合わせてこの宇宙のその時をクリアーするのだ。 力を合わせるということは、自分の大事にしている信仰が真理の一部だと実感することだ。この、「その時」のための、たくさんの中の1つだと実感することだ。たくさんの中の1つを持っその時」に参加できることを誇りとするのだ。  ライオンは肉だけ食べる。牛は草だけ食べる。それしか食べられないのである。人は多くの食べ物を食べる。人が人であるためには多くの食べ物が必要なのだ。「キリスト教だけ」とか、「ユダヤ教だけ」とか、「現代科学だけ」とかは、この、ライオンや、牛たちと同じである。

 「その時」をクリアーするためには、多くの信仰、哲学、科学、芸術・・。 それらの多くが、必要となる。これらのすべてはとてつもなく貴重な食材なのである。  進化論は正しい。聖書で、神が人を創造したとあるそれも正しいのだ。 地球が丸いと知っている私は、同時に日々の暮らしの中でまっすぐな基礎を作ろうとしている。この二人の私は矛盾しているがどちらも正しいのだ。ただ見る場所が違うだけである。  聖書と、進化論のどちらが正しいか、そのようなことは終わりのときが来たのだ。自分だけの信仰が正しいと言う時代は終わるときを迎えたのである。

 この宇宙の「その時」のために、釈尊が、モーゼが、キリストが、たくさんの人達が、風も、木も、花も、すべてのものが、それぞれの場所でそれぞれの役目を果したのだ。その一つもかけてはここまで来られなった。それぞれはすべて平等である。  ただ、ミミズとしてこの宇宙の目的に参加するか、人としてこの宇宙の目的に参加するだけの違いである。


対馬さんの壮大なビジョンと勇気には圧倒されます。

ひとつだけ質問があります。知識思い込みとの区別をどのようにされておられるのでしょうか。