苦は苦そのものからの開放を求め無い事。それが開放となりえるのでは? 苦そのものから逃れようとするのが最大の人間の業では? 魂とは?もし人間にそれがあるとして脳が死んだ後それがあるならそれはどんな人間 のものでも汚されていないのでは?幼いころから死ぬまでかけて蓄積された思考及び 経験が自我になっているんだから。それは魂という物質に蓄積されてるんですか? 悟り及び真理を求める姿勢こそ新たな縁起になり得るのでは? 開放は開放を求めない事に開放があるのでは? 自由を求める少年達の姿それが最も拘束の象徴では? 人間は苦をもてあそび本当はそれをてばなしたくないのでは? なぜなら苦に対して苦と命名し勝手に苦しんでいるのは人間それ自身なのだから。本 当に それを手放したいなら人は苦しみから逃れようとするのを止めるのでは? 何故ならそれが開放への真摯な姿勢なのだから。


「人生を、ますます苦しく過ごす三つの方法」

言われていることとつながるところがあると思いますが、精神分析の岸田秀の小論文に「人生を、ますます苦しく過ごす三つの方法」というのがあります。

・・・とくに現代が神経症の時代というわけではない。ただ、近代においていろいろな形での集団神経症がますます崩れて、人類の神経症が個人の位相に押し戻され、現代人は、みんな一緒の集団神経症ということよりはむしろ、それぞればらばらな個人神経症に悩むようになったという違いがあるだけである。

みんな一緒の集団神経症に罹っていると、極端な場合は集団自殺や戦争などをやらかしたりして、現実面での損害は大きいが、個人的に悩むということは少ない。・・・・しかし、現代の神経症的悩みは、当人は深刻に悩んでいても、他の人たちには、なんでそんなことで悩まねばならないのか分からない、アホらしいとしか言えないような悩みなのである。・・・・

現代人に特徴的なこの種の悩みを解決し、人生を楽しく過ごす方法はあるのであろうか。はっきり言って、悩みを解決する方法はないと思う。ただ、悩みを無用になおさら耐え難いものにする方法はある。どういうことが悩みをなおさら耐え難いものにするかと言うと、第一に、悩みを解決する方法があると信じることである。悩みから開放された人生を想定し、それを本来の正しいあり方だとし、悩んでいる今はどこか間違っていると考え、本来の正しいあり方に達しようと悪あがきすることである。

第二に、悩みを別の悩みにすり替えることである。狭い意味での神経症とはこのすり替えられた悩みである。たとえば、洗浄強迫という症状がある。当人は、トイレに行ったあとなど、いくら洗ってもまだ手が汚れているような気がして何時間も手を洗わねばならない。・・・当人だって馬鹿げているとわかっているが、やめられない。深刻な悩みである。・・・自分の罪に悩んでいることが本当の悩みなのだが、当人はこの悩みに直面するのを避け、罪悪感を抑圧した。その結果、「罪の穢れ」が「手の汚れ」にすり替えられ、この症状が出てきたのである。この種のすり替えられた悩みはむなしいだけに、無限につづく。いくら手を洗っても、罪の穢れは落ちないからである。・・・

第三に、自分の悩みの責任を他人になすりつけることである。これも他人を次々と敵に仕立て上げねばならなくなるので、無限に空回りする。

要するに、悩むべきことをありのまま悩んでいればいいのである。そうしていれば、もともと耐え難い悩みをなおさら耐え難いものにする愚は避けられる。

(岸田秀、『ふき寄せ雑文集』、文春文庫、169〜172頁)