最大の問題点は、やはり、佐田さんの唯物論は、唯物論者の唯物論ではなく、霊魂論者の(見た)唯物論であるところです。佐田さんの「知覚の領域内の外を外部として認識し、内部を自己と認識している(私)」とか「外を見つめるラニング状態としての(私)」とか「知覚の領域の内側から、いろいろな主張(する私)」というような自己を内在者とする考え方そのものが、唯物論者の考え方というより霊魂論者の考え方だからです。そうでしょうねえ。死んだら「私」はどうなるか、などという発想自体が「霊魂主義」的ですよね。「唯物論者のジレンマ」などというたいそうなテーマをつけたのが間違いだったかもしれません。(^^)
実在の唯物論者(できたら、世によく知られている人物)とその「私」観(できたら公に出版されているもの)を探しだし、それを分析・解明して、そこから、唯物論の「私」観を批評するのが、この種の論議の取るべき順序ではないかと思います。私にとっては重い課題です。フロイト、マルクス、レーニンとか、昔読みかけては、「分からん!」と投げ出した本は多々ありましたが・・・(^^;)。それでも、いろいろと調べてみました。 実に様々な唯物論に関する議論があっているようです。
議論そのものが観念的に見える「唯物論哲学」共産主義を生み出した弁証法的唯物論。唯物論者が社会的実践を考える時にマルクス、エンゲルスは避けてとおれない巨頭であること。 また、精神分析学や心理学で扱う「私」観は、多分に「アイデンティティー(自己同一性)」の問題として、その構造の分析などが主なことのように思われます。 「人間の意識とは、人間の脳の動作様式を説明するために便宜上考えられた述語であって、直接観測されるものではない」あるいは「自我などというものは、それ自体実在する訳でなく、さまざまな知覚の束にすぎない。」という、他人の意識を想像し考察する立場を多々確認しただけでした。そして、どうもはっきりとした「私」観というものが見つからないのです。といってもざっと調べただけですが。
そういう中で、
「脳とコンピュータ」−意識を持つ機械を目指して−甘利俊一 http://www.kcg.ac.jp/acm/a5090.htm
「自分」という問題を考える http://www2s.biglobe.ne.jp/‾chouse/essay.html
などは大変興味そそられるものがありました。
前者が、哲学的文学的あるいは社会主義的「唯物論者」が多い中にあって、真に科学的唯物論者の立場と思われます。また、後者の音楽教室を開いている方は、物質が全てという立場を取りながらも揺らぎのある漠然とした「唯物論者」の立場に思われるのですが、面白い「私」観を展開しておられます。
真の唯物論とは何ぞやとか、霊魂主義だからとか、そういう方向の議論をする気は毛頭ありません。
「物質がすべてである」という唯物論に立って考察するとき、自分の意識というものが肉体(脳)によって創りあげられている、この選択の自由も何もない一方的な存在。それが「私」という正体であるという事実。今のこの肉体は消滅しても、いつまた肉体によって一方的に創り出されるかもしれないもの。その場合、「脳とコンピュータ」で甘利氏が指摘する「すなわち意識とは,シンボル操作による自己の推論の段階をモニターし管理するものであって」という、モニターする管理者として存在させられる意識は、次の肉体によって再び創られて同じ仕事をさせられる可能性がある、ということになるのではないでしょうか。それはやはり、「知覚の領域内外を認識する私」として出現するでしょう。 もちろんこれは、当初から言っていますように「魂の遍歴といったものではない」ものであり、全く別の私です。
これは、「自分というものを考える」の著者が言ってあるように、「今の「私」という意識がいつでも時間の最先端で連綿と繰り返され」る楽しみがあります。同時に、どんな生命体に「開かれる」か分からないことでもありましょう。いやひょっとしたら、甘利氏が考えているような「コンピュータ」の意識としてよみがえるかもしれません。これはもう「ロボコップ」の世界ですね。
どうもわかりにくい文章ですみません。公的に出版されているもので「唯物論者」の「私」観を述べている著書は見つけることが出来ませんでした。
時間がありましたらご検討を願います。
佐田 恆行 wagamind@jiyu.net.np
(1)「私」=意識?
やはり、佐田さんの論議は、霊魂論者の唯物論であって、唯物論者の唯物論でないところに、決定的な弱点があるように思われます。前回までは、佐田さんの「私」は、わたしのなかに内在していて、わたしの眼球を通して外を眺めている内在者とされているため、とうてい唯物論とは言えないことを指摘させていただきましたが、今回も、たとえば、
自分の意識というものが肉体(脳)によって創りあげられている、この選択の自由も何もない一方的な存在。それが「私」という正体であるという事実。今のこの肉体は消滅しても、いつまた肉体によって一方的に創り出されるかもしれないもの。と言われます。このような考えの背後には心と体を別のものとする人間観があります。ここに問題があると言えるでしょう。そもそも、佐田さんご自身の想定される唯物論は「物質がすべてである」の立場であったはずです。
「物質がすべてである」という唯物論に立って考察するとき・・・もしそうなら、意識を体(物質)とは別の存在者とするところから出発したのでは、佐田さんご自身の定義から言っても、とうてい、唯物論者の「私」論にはなりえないと思います。
(2)ロボット
ロボットは心(意識)とは何かを考えるうえで貴重なものと思います。しかし、「ロボコップ」など考えなくても、もっと単純なもの、たとえば、温度計などのほうが便利かもしれません。温度計は熱さ寒さを「知覚して」それを数字に表す「行動を起こす」わけですから。原理だけを考えるときは、単純な装置のほうが、わかりやすいでしょう。
考えてみると、すべてが他者からの刺激に対して反応するわけですから、知覚能力(意識・心)というのは、何も、人間や動物に限って考えることはない --- などというようなところに突っ込んでいかれたら、佐田さんの研究もおもしろい結果を生むようになるかも知れませんね。
(3)公的に出版されている、唯物論者の「私」観
大森荘蔵などはどうですか。大森氏が唯物論者かどうかは知りませんが、「心」とか「私」とか「知覚」などについて、さまざまなユニークな研究を発表されていて、佐田さんの興味範囲と重なるところがあるのではないかと思います。
人間には心というものがある、などとわざわざ言うのはおかしいでしょう。あまりに当たり前のことだからです。しかしそれでもって、人間には心臓がある、というような意味で心があると言っているのではないことは確かです。「心」という何かの臓器がどこかにあるわけではないはずだからです。だからいくら当たり前のことにしても、一体「心がある」とはどういうことなのかをわざわざ尋ねることもゆるされるでしょう。大森氏の代表作としては、ここに引用した『新視覚新論』(東京大学出版会、1982年)の他、『物と心』(東京大学出版会、1976年)、『流れとよどみ:哲学断章』(産業図書、1981年)、『哲学の迷路:大森哲学 批判と応答』(産業図書、1984年)などがあります。もちろん答えは簡単だ、わかりきったことだ、と言われるでしょう。机や石や水、そういった「心なき物」は喜びも悲しみもしない、考え事もしない、話しもしない、しかし人間はそういったことをするのだ、それが「心がある」ということなのだ、と。その通りです。しかしここで一言付け加える必要があります。・・・喜び悲しみ考え話す、その当のものはこの体なのでしょうか。いやそうじゃない、それは心だ、という答えをするとすればそれは甚だ心もとない答えです。なぜならば、先に言ったように何か臓器めいた「心」などがあるとは誰も思っていないからです。しかしだからといって、それは体だ、と言うのも変でしょう。机や石や水と同じように物体である体が考え事をする、というのはどこかおかしいからです。すると再び何とか「心」を持ち出したくなるでしょう。・・・
(大森荘蔵、『新視覚新論』、東京大学出版会、226〜227頁)
大森氏の立場は、
手足や脳や神経の他に私なるものがあり。その私が念力で例えば脳の物理過程を一つの方向に向け、そして神経をへて手足が動く、というのではないのである。こういう思いは、体の他に心的な私がいる、あるいは私とは認識主観であり行為の心的作動者だ、といった事実誤認から生まれてくる。というふうに明確ですから、佐田さんの「唯物論者のジレンマ」における吟味対象・批判対象としては適切なように思われます。すくなくとも、マルクスやエンゲルスと取り組むよりは、ずっと楽しい作業になるだろうと思います。(大森荘蔵、『新視覚新論』、204頁)