つたない論文にさっそくのご批判ご検討を頂いてありがとうございます。

 精神分析学や哲学など、とんと勉強したことのない私が、抱いているイメージを言葉として表現することの困難さを感じております。

・・・『ラッセルとは違った方向から、フロイドの精神分析(岸田解釈)は、自我(「私がほかならぬこの私であることの拠り所」)が「他者との人間関係のなかで構築される共同幻想」であること、すなわち、内在する実体ではないことを基本にしています。ラッセルとフロイド、すくなくとも、今世紀を代表するこれら二人の無神論者・唯物論者に関して言えば、佐田さんが「唯物論的観点」として取り上げられる、生体に内在する小人のような「私」、実体主義的「私」、はなはだ霊魂主義に近い「私」 --- そんな「私」の存在などかれらは認めてはいません。』
 やっぱりこっちの方の視点に持っていかれましたか。それはそうでしようねえ。岸田秀さんの一節は、すでに佐倉さんの「仏教に関する来訪者の声」の中で紹介してあったものですから、そのことも考慮していたつもりなのですが、用語も何もまるで自己流なものですから、うまく伝わらなかったと思います。

 ラッセルやフロイドの視点もそれはそうであろうと理解できますし、また、岸田秀さんの考えも大いに理解できるものです。ただ、こういった人々の場合、客観論証にこだわるからか、どこまでも観察考察対象を他人に置いている視点であることが前提になっていることを感じます。

 私としては、唯物論的観点に立って客観的に観察した場合、超精密機械の代表であるコンピュータにたとえると、実行状態runnig そのものが精神現象に該当することになりましょうし、つまり「私」とは畢竟、現象の主体であると考えるしかありません。もちろんこれは、解体したところで実体として存在しているわけではありません。

 その場合、外から見た場合、つまり客観対象として他人を見た場合、自我なんぞは実体も何もない共同幻想のたまものでしかないと、厳密には、外から見ればそう見える、そう観察できる、ということです。

 奇妙なことに、人間は人間関係において、他者の精神なるものが実体として存在していることの証明が出来ません。まさに岸田秀さんの言う「人間が成長するにつれて自然と持つようになる何らかの実体ではなく、他者との人間関係のなかで構築される共同幻想であり、他者によって支えられている。」です。(ただしこの場合も厳密には、個々人の別個の記憶というものが大きく関係していることと、しかもその記憶を維持して処理する構造を持った肉体が存在することが前提になっているのですが)

 そしてあらゆる生命がこの条件に当てはまっており、この共同幻想の中に人それぞれは、現象として知覚の領域の内側から外を見る形態のラニング状態になっているというふうに説明出来ることになります。

 これは現実のものとして自分を振り返ればすぐに分かることです。ラッセルもフロイドも岸田秀さんも、机に向かって様々な論文を書いたことでしょう。インクの匂いを感じたり時々痛む瞼を押さえ押さえしながら、自分の持つペン先を見つめながら。それを見つめ感じているのは、やはり他人ではない私ということでしょう。 ところで、そんな私同様に、まさに他人もそうであろうとは、証明が困難なものです。まさに人間関係において他人も私のようにふるまい、行動している、だから、私のように、見、感じ、視界を眺めているだろうと、想像するほかはありません。もちめん、「目を閉じてみて下さい、目を開けてみてください」とやって、そこに現れるものは同じ幻想内の共通認識事項に過ぎないと言えましょうし。

 この度の拙論で、私が説明しているのは、それにもかかわらず、自己観察という視点に立ったとき、現実として、そういう外を見つめるラニング状態としての「私」は現実のものであるということです。(だからこそ車の運転もできる)

 そして、その場合の「私」は、個としての肉体が消滅しても、別の肉体の誕生によって、その共同幻想である人間集団が求める以上、客観としての個ではなく、主観としてのそのラニング状態が再び作り上げられる可能性があるという論理にならないか、ということです。なぜならそれは、自分だけに特別なものではなく、ごくありふれた現象であるからです。今も昔も、せっせせっと生命は生まれ、肉体は形成され、それぞれに知覚の領域の内側から、いろいろな主張をします。その自我というものを主張するのが人間ですが、自分だけは特別だなどというのは、まさに幻想であり、唯物論者もまたその幻想にはまってはいないか、ということです。肉体によって、かつ、人間関係によって、現象として生じさせられている「知覚の領域内の外を外部として認識し、内部を自己と認識しているプログラムのラニング」はちっとも特別でなく、珍しいものでもなんでもないことになるからです。

 唯物論者がよく言う「人間は死んだら無になる」、というそのあまりに短絡的な答えは、他人の死のみを扱っているからこそ出てくるものであり、自己観察に欠けた視点でしかなく、自分の死なんぞは考える気にもなれない、というものが内実として感じられるものです。

更なるご批判ご検討をお願いします。(^^;)

これからもよろしくお願いします。



唯物論者の唯物論と霊魂論者の唯物論

最大の問題点は、やはり、佐田さんの唯物論は、唯物論者の唯物論ではなく、霊魂論者の(見た)唯物論であるところです。佐田さんの「知覚の領域内の外を外部として認識し、内部を自己と認識している(私)」とか「外を見つめるラニング状態としての(私)」とか「知覚の領域の内側から、いろいろな主張(する私)」というような自己を内在者とする考え方そのものが、唯物論者の考え方というより霊魂論者の考え方だからです。

実在の唯物論者(できたら、世によく知られている人物)とその「私」観(できたら公に出版されているもの)を探しだし、それを分析・解明して、そこから、唯物論の「私」観を批評するのが、この種の論議の取るべき順序ではないかと思います。

後半の、

「私」は、個としての肉体が消滅しても、別の肉体の誕生によって、その共同幻想である人間集団が求める以上、客観としての個ではなく、主観としてのそのラニング状態が再び作り上げられる可能性があるという論理にならないか、ということです。なぜならそれは、自分だけに特別なものではなく、ごくありふれた現象であるからです。今も昔も、せっせせっと生命は生まれ、肉体は形成され、それぞれに知覚の領域の内側から、いろいろな主張をします。その自我というものを主張するのが人間ですが、自分だけは特別だなどというのは、まさに幻想であり、唯物論者もまたその幻想にはまってはいないか、ということです。肉体によって、かつ、人間関係によって、現象として生じさせられている「知覚の領域内の外を外部として認識し、内部を自己と認識しているプログラムのラニング」はちっとも特別でなく、珍しいものでもなんでもないことになるからです。

というところは、何をおっしゃりたいのか、どうもよく理解できません。すみません。