こんにちわ。初めてお便りします。佐田恆行ともうします。
たまたま初めて、佐倉さんのホームページを拝見したとき、それぞれのエッセイの考察の深さ緻密さに感銘しました。また、お便りに対する誠実で真摯な応答にも本当に心うたれました。
これは、よいホームページを見つけたと思い、あちこち読ませていただいていましたが、やがて、これは全部読むに値するものだと思いまして、全てをダウンロードして読ませていただきました。しかし、ほとんどテキストだけで5メガバイト以上あるのですね。たいへんな量であると同時に、佐倉さんの膨大な研究成果であると感じ入りました。とりわけ、「空」の分析が圧巻です。また、「和」の思想にもおおいにうなずけるものがありました。
さて、いろんな立場、考えの方が、様々な意見を述べておられて、たいへん勉強になりますが、「霊魂」ということに関して大別すると(乱暴ですが)、「霊魂などないと思う人」あるいは佐倉さんのように「認識領域を越えている問題」とする人、あるいはまた、「霊魂はある、と思いこんでいる人」とに分けられるようです。何がどうしてそんなことがそれほど問題になるのかが、よく分かりませんが、ようするに、人間には、「私」という者の行く末もまた考えずにはおれない、人間特有の自意識があるからでもありましょう。
もう何年も前になるのですが、「霊魂など存在しないもの」として考えたら、なにがどうなるか、ということをひょんなことからあっさりと結論づけてしまいました。 今でもその結論は変わっていませんが、どうも私一人の思いこみのようでもあります。そこで佐倉さんの御批判、御検討を御願いしたいと思うしだいです。
唯物論者のジレンマ・・・「私」とは何か
--- 唯物論的観点から見た、「私」の死とは ---
現在、唯物論的観点にはっきりと立つ科学者は、人間を超精密機械とほぼ同等に考えている。すなわち、有機物質が組み合わさって、様々な機能を持つに至った超精密機械と。
このことは、人の精神活動に関係する、脳がどのように精神活動を作り出しているか、なども徐々に明らかになってきていることから、そのような観点に立つ人はこれからますます増えていくことと思う。
したがって、この場合の唯物論的観点とは、そういう人たちがもっぱら自説としやすい、「霊魂の存在を否定し、死後の世界を否定し、人の精神は肉体の存在によってのみ成り立っているという」観点を前提に、話を進めたい。
結論から言うと、霊魂の存在を否定し、死後の世界を否定し、人の精神は肉体の存在によってのみ成り立っているという唯物論的観点に立った時、そこから論理的に導かれるものは、「輪廻転生説」的に「私」という意識が永遠に認識されることになる、ということである。
このことを、論証してみたい。
まず、「私」とは何か。ということを唯物論的観点で厳密に規定せねばならない。 人は、普通、日常生活の中では、自分を中心にして、物事を判断する。たとえば、私の手、私の頭、私の顔、と。その場合の「私」は、自意識としての「私」を中心にして、肉体がそれに付随するものとする観点からの表現である。
しかし、脳も含む肉体の活動そのものが、この「私」という精神活動を創造しているという唯物論的観点に立つなら、まずは、一度そういう見方を変えて、肉体の側から見ての精神的存在としての「私」とは何かを考えてみる必要がある。 つまり、肉体の存在によって、成り立っている、正確に言えば、成り立たせられている、「私」とは何かということである。
人は、意識としての「私」を内部的にはどう自覚しているのか。そして、他と私をはっきりと区別しているものは何だろう。 わたしたちは、「私」は明らかに「他」ではない「私」であることを知っている。 それは簡単に言うと、例えば目を開けてものを見ている「私」は、その視野に、自分の体の一部と確認している鼻が下の方にわずかに見え、それ以外に約百八十度広がっている見慣れた視界を見ている。それが「私」であり、その視界に映っている誰々さんが「私」以外の他の人であり、例えば、記憶にある知人だと認識している。 これが、脳活動の中から見た意識としての「私」ということになる。つまり、「私」とは、視野のこちら側にいる者、と言ってもよい。もちろん眼だけではなく、聞こえ、感じ、思うことなども含めてである。
普通、人は、「私」という者を意識する時には、自分固有の記憶に基づいて意識する。つまり、アイデンティティとしての「私」としてである。 その場合の「私」とは、唯物論的に厳密に言うと、固有の肉体によって、固有の情報を処理する脳活動が創りだしているところの、固有の意識としてアイデンティティを持たせられている者、ということになろう。 例えば、自分自身を言い表わす時に、「私の名前は何々で、妻がいて子供が何人で、こういう仕事をしていて・・・」というのは、固有の意識がもたらすその人のアイデンティティである。この場合の「固有」とは明らかに「記憶」がもたらすものであろう。
それでは、もしこの「固有の私」が記憶喪失になったらどうなるだろうか。自分が誰でどうしてここにいるのかも分からず、つまり、私のアイデンティティである「固有の私」はその時点で意識にのぼらないことになり、消滅しているも同然となろう。 けれどもである。そこにはちゃんと「私」としての意識は認識されるだろう。つまり、眼に視界が映り、耳に聞こえ、手で触る、その知覚の領域のこちら側に「私」は存在していると。 これは、生物としての肉体を持つがゆえに、その機能によって「私」として認識する立場に立たせられている者としての「原的私」とも言えるものであり、「固有の私」とは違って、固有の記憶の意識のあるなしを問わず存在する「知覚領域内の私=原的私」と仮定できよう。
では、「私」が死亡した場合はどうなるのだろうか。 普通、唯物論的観点に立つ人は、自分の「死」を外部から見たことに基づいて想像をしている。よく言われるように、テレビが消えたように「無」になるのだとか、「ホワイトノイズ」のようなものだとか、である。 しかし、これは、全く見当違いの考えである。もはや無になった存在は、「無」そのものすら認識は出来ないのであり、それらの考えは人の死を外部から見るという、どこまでも「他人の死」をそのまま自分に当てはめて空想するところからの結論にすぎない。 むろん、固有の肉体の消滅は、固有の知覚の消失であり、固有の記憶の全ての喪失であり、完全なる「固有の私」の無である。 しかし、「原的私」は、どうなるのだろうか。固有の記憶に基づくアイデンティティとしての「私」ではなく、知覚の領域の内側からのぞき見ることになる存在としての「私は」?
私に対して視野を与えているもの、例えば眼という器官を通して、私に映像を与え、認識を生じさせているもの、それは当然肉体である。けれども、それは私だけが持っているのではない。人間に限らず、犬も猫も、原生動物だって知覚を持っている。それら全てに知覚の領域の内側に立つものとしての「原的私」は存在し、また、新たな生命の誕生によって作りあげられている。
例えば、金魚の中に「私」があった場合を想像すると、金魚の知性は人間よりもはるかに低いから知れているだろうが、そこに、視野に映る世界を認識していることは間違いないだろう。その時の、視野のこちら側にある意識、つまり「原的私」は、固有の記憶に基くものではない。金魚自身が意識的に創ったものでもない。全く、金魚という肉体、金魚の脳細胞そのものが、創っていることになる。
つまり、「原的私」というものは、肉体の固有性に基づくのではなく、誰でもよい、何でもよい、そこに肉体があれば必ずそれによって生じるものである。 つまり、知覚のこちら側から外を見ることになる存在、すなわち「原的私」というものは、肉体によって生じさせられるのであり、固有であることを問わないのである。
例えば、金魚という「私」が死んだ。愛称トトという「私」は消滅したが、固有でない「私」、そこに生物であるかぎり、存在し続ける「原的私」、つまり、知覚のこちら側に立って視界を見ることになる「私」は、再び他の肉体によって創られるのである。そして肉体には固有性があるゆえに、新たな「固有の私」がそこに重ねられるだろう。 そしてそのような現象は、生物の肉体の誕生を通して、永遠に続いていくだろう。
その場合の「私」は、生まれ変りとかいうものではもちろんない。全く関係ない別の個有の「私」である。しかし、「内部から外をのぞき見る私=原的私」という現象は再びつくりあげられ、やがて固有の記憶の蓄積に基づいた「固有の私」とともに、存在させられ続けるだろう。 人で言えば、目に見えるその視界の、こちら側に立つ「私」であり、肉体の死と誕生を繰り返しながら、永遠に、こちら側から外を覗き見る「私」はあり続けさせられることになる。それは、肉体がある故に「私」という精神活動は現象として唯一有るという考えから理論的にもたらされる結論である。
この、誕生と共に、としたが、じゃ、すでに生存している生物の中に視野を持つ「私」に、それがとって代わらないか、という考えも導かれるが、それは、ちょっと、考えにくいだろう。 例えば、ここに百人の人がいれば、それぞれが「私」というものを持っていることになるが、一個の肉体は、一個の「私」しかないから、誰かの「私」が、他の「私」を兼ねるということはできない。そこに、固有であることとは関係なく、すでに「原的私」が一個存在しているからである。やはり、新たな誕生と共に、ということになろう。
「私」とは何か。それは「他人のこと」ではなく、「私のこと」であり、すなわち、肉体の誕生によって、視界のこちら側から見ることを永遠に余儀なくさせられている存在ということになるのである。
さて、たとえば、ここに「私」という人間が死んだとする。病院のベットに寝かせられ、臨終を看取らんとする家族の声や、医者が脈を取っている感じや、看護婦の気配、薄れゆく意識、認識、そしてやがて何も感じず思わなくなり、生命活動が停止した、という瞬間。 何かうごめくような感覚、鈍い音、静寂、すべてがぼんやりとしか分からない意識のようなもの、やがて、明るいものを感じ、そばに動く大きなものがあり、何が何だか分からない中に、しきりに空腹を覚えたり、痛かったり、冷たかったりする。 たとえば、それは人間が言うところの、「ねずみの子供」の中に、新たな肉体の誕生によって「私」すなわち、意識の視野のこちら側から外を見る存在が生まれさせられることになるかもしれない。もっとも、ほとんどが「原生生物」だろう。なぜなら、生物の圧倒的絶対数を占めるのが、細菌類だからである。 文字どおり輪廻転生である。しかもそれは、魂の遍歴といったものではない。どういう「私」になるかは全く分からない次の「私」である。 そこに、固有の「私」が無くなるなら、すべてを無くするも同然だ、という考えもあろう。しかしながら同時に、次はどのような「原的私」が作りあげられるのかということも、想像せずにはおれないだろう。 人間は、他人の未来を思いやることもすれは、同時に、自分の未来も思いやることをする生き物だからである。 いずれにしろこのことは、肉体が全てであるという、純然たる唯物的観点に立った場合に導かれる、極めて論理的な結論である。
通常、唯物論者は輪廻転生などを否定するが、唯物論的観点に立って「私」というものを考察してみると、唯物論者は輪廻転生を認めざるを得なくなる、という逆説的主張が面白いと思います。
しかし、佐田さんのご主張の中で、もっとも問題と思われるものは、唯物論的観点の「私」を人間や生物の内部に生息する小人(人間の中の小人間、カエルの中の小カエル)のようなものとして「規定」されているところでしょう。
まず、「私」とは何か。ということを唯物論的観点で厳密に規定せねばならない。・・・それは簡単に言うと、例えば目を開けてものを見ている「私」は、その視野に、自分の体の一部と確認している鼻が下の方にわずかに見え、それ以外に約百八十度広がっている見慣れた視界を見ている。それが「私」であり、その視界に映っている誰々さんが「私」以外の他の人であり、例えば、記憶にある知人だと認識している。これが、脳活動の中から見た意識としての「私」ということになる。つまり、「私」とは、視野のこちら側にいる者、と言ってもよい。もちろん眼だけではなく、聞こえ、感じ、思うことなども含めてである。・・・私に対して視野を与えているもの、例えば眼という器官を通して、私に映像を与え、認識を生じさせているもの、それは当然肉体である。けれども、それは私だけが持っているのではない。人間に限らず、犬も猫も、原生動物だって知覚を持っている。それら全てに知覚の領域の内側に立つものとしての「原的私」は存在し、また、新たな生命の誕生によって作りあげられている。
部屋の中から窓の外の景色を眺めるている人間、その人間の中にさらに小人間が住んでいて、「視覚器官の窓」の外をながめている、という風景画は、唯物論というよりむしろ霊魂主義者の主張(「私」という実体がまずあって、それが肉体という着物を着ている、という考え)ではないでしょうか。ガチガチの唯物論者なら、
生体の内側に生息していて、視覚器官を通じて外界を眺めている、そんな「私」なるものが、もし人間や動物の生体を解剖して観察できるなら、そのような「私」を認めよう。そうでなければ、そんなものは単なる人間の空想にすぎない。などと言うのではないでしょうか。ここに本論の最大の弱点があるように思われます。つまり、内実は霊魂主義であるところの、それゆえ、おそらくいかなる唯物論者も支持していない、「唯物論的観点」から出発されていることです。
たとえば、著名な無神論者であり唯物論者であるバートランド・ラッセルは、人間やものに内在する主体を想定する実体論を批判して、次のように言っています。
実体とは属性の主体であり、それは属性とは別のものとされている。ところが、属性をすべて取り除いて、実体そのものを考察してみようとすると、たちまち、そこには何も残っていないことに気づくだろう。・・・実体とは、実は、さまざまな出来事をひとまとめに語るための便宜条の名前にすぎない。・・・実体とは、要するに、形而上学的間違いであり、その間違いは、主語と述語でできている言語の構造を、事実の世界の構造に持ち込んでしまったことによるのである。同様に、「我思う、ゆえに我在り」という(霊魂主義者の)デカルトの命題を批判して、ラッセルは次のように言っています。(Bertrand Russell. A History of Western Philosophy, NY: Simon & Schuster, 1972. pp.201-202)
「我思う」というのがかれ[デカルト]の究極的前提である。この「我」というのは誤謬である。かれはその究極的前提として「思いがある」というべきだったのだ。「我」という単語は、文法的に便利であるが、何らかの認識データを指し示している言葉ではない。かれが「我とは、思っているところの或るものである」というとき、彼は無批判的に伝統的スコラ哲学の範疇を受け入れてしまっているのである。かれは、いかなる意味においても、「思い」が「思う主体」を必要としていることを証明していないし、それを信ずべき理由もあげていない。「思い」も「知覚」も複雑な出来事の流れにすぎず、「我」という単語(主語)は、そのような一連の出来事を一つの束にして伝達するための言語上の便宜(たとえば、「を」とか「が」のようなもの)にすぎない、というわけです。このように、ラッセルは、生体の内側に生息していて、視覚器官を通じて外界を眺めたり、考えたりする現象の背後に存在すると空想されている「私」なるものを認めません。(同上、p.567)
フロイドによれば「自我」とは、人間がその内側に持って生まれるものではなく、生まれた人間が他人(通常、親)からコピーすることによって作られるものです。
自我とは他者の自我のコピーであることを発見したのはフロイドである。自我は、一般的に言えば、私がほかならぬこの私であることの拠り所であり、私を私以外の者と区別するところのものであって、自我なしにはわたしという存在はないのであるが、その自我が他者の自我のコピーだというのである。厳密には、フロイドはコピーという言葉は使っておらず、自我の成立の同一視(identification)のメカニズムで説明するわけであるが、同一視とは他者と自分を同一視するということであり、同一視された(identified)他者が自分の同一性(identity)になるということであって、平たく言えば、他者の自我をコピーして自分の自我を形成するということである。ラッセルとは違った方向から、フロイドの精神分析(岸田解釈)は、自我(「私がほかならぬこの私であることの拠り所」)が「他者との人間関係のなかで構築される共同幻想」であること、すなわち、内在する実体ではないことを基本にしています。ラッセルとフロイド、すくなくとも、今世紀を代表するこれら二人の無神論者・唯物論者に関して言えば、佐田さんが「唯物論的観点」として取り上げられる、生体に内在する小人のような「私」、実体主義的「私」、はなはだ霊魂主義に近い「私」 --- そんな「私」の存在などかれらは認めてはいません。これはどういうことなのか。自我の根拠は自分のうちにではなく、自我を構成する材料は自分の中から生じてきたものでなく、借りものであるということである。
(岸田秀、『ふき寄せ雑文集』「自我の精神分析」、文春文庫、174〜175頁)
人間の自我は、種子から芽が出てくるように、人間が成長するにつれて自然と持つようになる何らかの実体ではなく、他者との人間関係のなかで構築される共同幻想であり、他者によって支えられている。個人は、自分一人だけでは、一つの肉体は持っているかもしれないが、自我はもち得ない。個人は、人間関係の中の網目の中の一つの結び目のようなものである。個人は他の誰かであることによってはじめて、世界のなかにおけるおのれの位置を獲得する。個人は、箱のなかに石が存在しているような意味で世界の中に実体として存在しているわけではないから、彼の位置を規定してくれる他者が一人もいなくなれば、何者でもなくなり、無に転落する。箱から取り出されても、石は依然として石であるが。われわれは、親にとっての子であり、妹にとっての兄であり、女にとっての男であり、患者にとっての医者であり、家主にとっての借家人である。これらの「子」とか「兄」とか「男」とか「医者」とか「借家人」とかの属性の総合がすなわち自我なのであって、自我という芯が別のところに実体として存在していて、これらの属性を付加的にもっているというのではない。これらの属性を一つ一つ剥いでいけば、玉ねぎの皮をむくように、自我はなくなってしまう。
(岸田秀、『続ものぐさ精神分析』「近親相姦のタブーの起源」、中公文庫、206〜207頁)
しかし、想像しにくいことではありますが、もしかしたら、佐田さんのおっしゃるような「私」観を持っている唯物論者もこの世のどこかにいるのかも知れません。もしそうだとしたら、佐田さんが指摘されるように、かれは一種の矛盾に陥っていると言わざるを得ないでしょう。唯物論者であると自負しながら、かれが持っている「私」観は霊魂主義者のそれなのですから。