1.神と言う用語の取り下げについて
神を自然に取り込んでも、依然として、それはわたしたちの認識の対象ではなく、信仰の対象のようです。神を「ヤーヴェ」とか「天照大神」と呼ぶかわりに、「物理法則の神」とか「生物の神」と呼び、信仰という行為を「仮説」と呼んでも、やっぱり、神についてのわたしたちの知識はゼロのままです。客観的な知識でないので、やはり、「あると思い込んでいるにすぎない存在」と言わざるをえません。「へたくそな説明はかえって話をややこしくする」という経験則どおり、私の説明は益々混乱を招いているようです。
一言で言うなら「物理法則の神」(「物理法則の神」≠「物理法則」の「神」ですので。念の為。)等は、自然界(の原理、メカニズム、それらを包括する一貫したシステム)に対して私が勝手に定義(または命名)した概念であり、”実在”します。(すなわち「私」という「主観を持つもの」の存在の有無に関わり無く、「(生物等を包括する)物理法則に関わる自然界のシステム」自体は存在するという意味です。確かに、「物理法則」は何によって包括されているのか私にもよく分からないのですが、「生物」は「物理法則」によって完全に包括されています、また、人間も、ものや生物の構造を意識的に変化させる能力を有していますが、人間は「生物」に完全に包括されています。)
しかしそれは一般的に言われる「神様(神)」とは別物であり、このような「神」が実在するかしないかということとは全く関わりがありません。(直感的に理解されやすいかと思い「神」という名詞を使用しましたが、いっそ「タニグチシステム」あるいは、「タニグチトロプス」とでも命名すれば良かったのかもしれません。)
私の犯した大きな過ちの一つは、一般的に言われる「神」と分離するつもりで「3つの神」の概念を提唱したことです。これがかえって「神様」と「物理法則の神」等を同列に並べ、密着させる結果となってしまったようです。また、私の「神」に対する考え方が佐倉さんほど厳格でない(というよりはなはだアバウトである)ため、「神」という用語を不用意に(都合良く)使ったことで聞き手に強力な方向性を持つ「ドライブ」として作用するキーワードとして働き、かえって誤解を深めてしまったようです。
以前にも申し上げた通り、私の(主観に基づいた)考えでは、一般的に言われる「神」とは、ほぼ全ての人間の脳が当たり前に持っている機能のひとつであり、基本的には「集団行動を可能にするための、リーダー(ボス猿)に従う機能」と「物事を抽象化する機能」が結びついて生み出した、現実的には存在し得ない「スーパーリーダー」であると考えています。しかし、現実に存在しないからといって意味がないわけではなく、それどころか、特に、どうしょうもない困難を迎えたときなどに精神を支え、現実世界に対抗させる非常に重要な働きをもっていると考えています。(また、どこの国の人であっても、教養や想像力の有無に関わり無く、祖先の霊や天国があると考えることも同様だと考えています。)
ともかくそんなわけで、これからは、「物理法則の神」を「物理法則システム」、「生物の神」を「生物システム」、そしてこれらを包括する概念を「自然システム」と呼びかえることにします。(つまり、「自然システム」について語ることが私のメインテーマであり、そのサブテーマとして「自然システムと、神という概念の関わり」があるという位置付けになります。)
2.現実の中の非論理性について
佐倉さんのエッセイ等を改めて読みますと、「論理性の確立」を念頭に置かれていることを強く感じます。もちろん不特定多数の訪れるHPのことであり、また、日本のみならず、アメリカ社会でのコミュニケーションを直接肌で感じておられる方にとって、それは当然のことであるように思います。
私も曲がりなりにも「計測」という、自然科学にも属する分野のエンジニアに端くれとして、報告書等を作成する際には、独善的な主観ではなく、データや文献等の情報を踏まえた、(万人が納得するような)論理的な考察を書きたいと心がけていますが、一方で現実世界の非論理性というか一筋縄では行かない様をよく身をもって感じます。
なにもここで人間社会を嘆こうというのでも、オカルトじみたことを語ろうと言うのでもありません。一般的に語られている論理性を、さらに一段も二段も推し進めなければ現実世界に対応させることが困難であるということを私自身の体験から申し上げたいと思ったのです。
人間の論理的な思考では、「AはBである」という概念と「AはBでない」という概念は相容れません。ところが「自然界」では、この両者の境界が極めてあいまいなのです。例えば、2+3=5などという計算は論理的に正しいでしょう。しかし、一直線上のA、B、C地点の距離を測ってみて、A地点からB地点までが2.000000km、B地点からC地点までが3.000000kmならA地点からC地点の距離は5.000000kmになるはずですが、まずピッタリとはなりません。それは器械の誤差だろうと言われると思いますが、この誤差を人間はゼロにはできないのです。つまり同じ場所で器械で測っても、ごくまれにしか2+3の答えを5と得ることが出来ないのです。
(1)「神」と自然の法則
谷口さんのいわれる「神」あるいは「システム」が、自然事象のなかにわたしたちが発見するパターンそのもの(一般に「自然の法則」などと言われているもの)のことならば、それはわたしたちの認識の対象ですから、わたしには何の抵抗もありません。わたしは、てっきり、自然の法則の背後にあって、その自然法則を生み出している原因のことを指しておられるのかと勘違いしていたのです。トマス・アクイナスなどのキリスト教神学者たちはしばしば、宇宙や運動の第一原因のことを「神」と呼んでいるからです。
(2)論理と現実
谷口さんの現場からのご発言にはとても新鮮なものがあります。ただ、わたしの考えでは、論理というものは、前提となる主張から結論となる主張を導出する推論の手続きのことであって、それは、主張と主張との関係を考察する道具にすぎません。ですから、論理というものは、言語の世界に関するものであって、現実に関するものではないと考えています。論理は現実に関するいかなる知識も与えてくれません。論理は、ただ、与えられた前提から、果たして、主張されているような結論が導出できるかどうか、あるいは、主張されている結論を導きだすためには、いかなる前提を必要とするか、などというようなことを分析するのに必要な道具なのです。