与太郎です。こんにちは。
人が生まれて死ぬという事を、海からコップ一杯の水をすくい再び海に返すという風に僕は喩えています。で、海に帰っていくコップ一杯の水は、今まさに海と合体するその瞬間を見る事ができます。それは人が最後に求めるものだと思います。人は様々なものを越えながら、あるいは越えようとしながら生きているのだと思いますがこればかりは越えられない、合体が最後に求めるものだと思います。海は無です。永遠もありません。これと対峙する時人は一筋の藁です。こればかりは越えられない。恐ろしいものですがこれを見て共に生きるならこんなに素晴らしいものもありません。そうして、最後に合体します。そこではもう死ぬ事もありませんが生きる事もありません。でもこれ、生きると言っていいのだと思うのです。やっぱりそう言っていい。ですからキリストでも誰でも「永遠の命」というのはそういう意味だと思います。
少し神秘的で、わたしにはちょっとわかりにくいのですが、人間存在が自然からうまれ、死によって自然に帰って行くという意味であれば、確かにそうだと思います。
お便りありがとうございました。
なお、わたし自身の「死後の世界」観については(「ある仏教徒の『死後の世界』観」)を参照してください。
1997年12月28日
今日は、また与太郎です。
佐倉さんのホームページは時々読んでいて、その真摯な考え方が好きで、いつかE-MAILを出して一つの事だけを言いたいと思っていました。
この間のアレはひどい書き方ですみません。一生に一度しかない死は、それを味わわなければもったいないという事だったんです。「無との合体」は、それを知るという事はこれほどの完結はないということだったんです。大往生ですよね。死ぬという事は無くなるという事、無くなるという事は無と合体するという事。
「永遠の命」というのは・・・・・・感じです、知り得ない思いです。でもキリストがそう言ったんならキリストはそれを知っていたんだと思います。何処に行くか、ちゃんと知っていたんでしょう。「無」は知り得ないと言った友達がいます。それを知っていたのだと思います。豪快ですね。コレ、「この世の始まりに隠されていた秘密」というんですか、もしかして。
「無我」って、何処で考えるかという事ですよね。心か、体か、頭か、感覚か、そのどれもが無い。自分では考えない。確か「自分が喋っているのは、自分を証明するのではない」とか何とか、聖書に書いてあったように思うんですが、手元に聖書がないのでごめんなさい。つまり自分が考えているのではないと。こういうひとは素晴らしいものを見つめている。だから自分を見ろと、自分を通してそれを見ろと言ったのだと思います。
で・・・・・・こういうのって真理?じゃないですよね。佐倉さんの「幸福」ぐらい関係がない。
何だかダラダラととりとめなく書いた様な気がします。でもたぶん一つの事を書いたとも思います。
禅問答のようですね。わたしにはまだちょっとわかりにくいのですが、「一つの事」というのは、死を大切にせよ、ということなのかな、と思っています。