河村です。

ではさっそく・・・・ 「幸福の追求」に対しての矛盾を一つ引用しましょう。

佐倉さんは、(「自分が求めているのは『幸福』である」というのは無意味な文で す。それは「自分が求めているものは『自分が求めているもの』である」ということ と同じことだからです。)と言ってます。 幸福=自分が追い求める物 となりますよね。

しかし「幸福に向かって努力する振る舞いを一切捨てた」と書いてます。 つまり「自分の追い求めてる物に向かって努力する振る舞いを捨てた」事になります よね。 って事は自分の欲望を捨てたって事ですよね・・・・ でも貴方は論文をHPに載せたり、議論をしたりしてますよね。 これは貴方がしたいからしてる訳ですよね・・・・

しかもKEVINさんへの返答にこう言ってますよね 「わたしは、現在も、またこれからも、自分の主張したいことを、自分が主張したい ときに、自分が主張したいように、主張します。沈黙もまたしかりです。また他人が そうする自由を大いに認めるものです。そして、それを規制するいかなる法律も道徳 も社会のプレッシャーもわたしは認めません。」

また安藤さんへの返信には 「最近わたしの友がわたしとの電子メールのやりとりを「日本の将来」という題で 自費出版しました。」

更に平瀬さんには 「とてもやりとおせないほど、わたしにはやりたいことが山ほどあるからです。」 なんて事まで言ってます。

これでは説得力に欠けますね。 では失礼します。

(1)相手の主旨を理解してから批判せよ

始めからわたしの主旨を理解しようとする意図がなかったのか、それとも、「幸福の追求とは欲望の追求である」と河村さん自身が思っておられるために、自然にそういう解釈になってしまったのか、わたしにはわかりませんが、明らかなことは、河村さんは、わたしの文の意味をその文脈の流れから切り離して解釈されているために、わたしが「欲望を捨てた」と主張している、などというひどく飛躍した解釈をしておられるのです。

(2)「やりたいことをやること」と「幸福を追求すること」とは全く別のこと

やりたいことをやれば人は必ず幸福になるとしたら、わたしたちはすでに天国に住んでいるようなものです。現実は、やりたいことをそのままやってしまえば、不幸になるかもしれないと考えたりするので、わたしたちはやりたいことが自由にできないのです。人は幸福の追求を止めたとき、つまり、「このことによって、俺は、もっと不幸になってもよい」と決断したとき、やりたいことが自由にできるようになるのです。

(3)人に勧めるものではありません

なんどか、別の所で繰り返したように、このような考え方はわたし個人のものであって、別に人に勧めるためのものではありません。幸福論などというものは人の数だけあるべきだからです。わたしはただ、「真理の追求よりは、幸福を追求したらどうですか」と、勧めて下さった投稿者の方に、お応えしただけです。

おたより、ありがとうございました。

なお、河村さんのご意見はこちら(「写本・訳本問題」)にもあります。