はじめまして
平尾輝明と申します。
楽しく拝読させていただきました。 佐倉さん独自の哲学とはどういったものになるのでしょうか? また、生きがい又は生きる目的とはなんでしょうか? 他者に対する批評だけでは、それらが見えてこないので質問させていただきま す。
大変失礼な質問ですがお答えいただければ幸いです。
(1)わたし独自の哲学
わたしには、たとえば「西田哲学」といったような、「独自の哲学」というものはありません。そんなものは考えたこともありません。わたしは、哲学というものを、その語源どおりに、「フィロ・ソフィア=知を愛する」という単純な意味に解しています。アリストテレスは「人間は生まれつき、知ることを欲する」と言いましたが、わたしは、「本当にそうだなあ」と思いながら、知りたいという欲求にまかせて、ただ右往左往しているだけというのがわたしの「哲学」かもしれません。
(2)わたしの「生きがい」、わたしの「生きる目的」
高校生のころ、「生きがい」とか「生きる目的」などについて考えたことがある(そして納得のゆく解答も得られなかった)ように記憶していますが、そういう疑問自体はいつのまにかわたしの中から消えてしまって、いま、なんだか、とてもなつかしい気持ちです。疑問が消えてしまったので、当然それに対する解答も用意できていないわけで、わたしには、生きがいも、生きる目的もない、ということになりそうです。
ただ、なぜそのような、「生きがい」とか「生きる目的」などについての疑問が、現在のわたしの中に存在しないのか、という質問にはお応えできます。これは簡単です。要するに、人生百年や二百年では、とてもやりとおせないほど、わたしにはやりたいことが山ほどあるからです。「生きがいとはなんぞや」とか「人生の目的とはなんぞや」というような疑問は、やりたいことのない人の心の中にしか生じてこないのではないでしょうか。
(3)他者に対する批評
わたしのサイトは「他者に対する批評だけ」というご感想ですが、これは、わたしが他人の意見の欠陥だけを指摘していて、わたし自身の主張は述べていない、という意味なのでしょうか。わたしは、別に大したことを主張しているとは思っていませんが、自分なりに自分の考え方をかなり積極的に主張をしている、と自分では勝手に思っているのですが……。 たとえば、「いじめ自殺、悲劇の英雄か」「いじめ自殺の心」において、わたしは、いじめ自殺という現象を自分なりに分析し、マスコミなどに対する批判と共に、どのようにしたらいじめ自殺を減少することができるか、という積極的な提言もしているつもりなのです。
しかし、わたしは、そのように自分自身の考え方をいろいろ主張しているつもりですが、たとえ、わたしが他者の批判だけをしているとしても、実は、わたしはそれでもよいと考えています。なぜなら、わたしたち人間はいろいろなことを信じて生きていますが、信じている事柄の中から、まやかしにすぎないものを、ひとつひとつ取り除いていく作業は、わたしたちが真理に近づくために欠かすことのできない重要な作業であると、わたしは思っているからです。真理であると思い込んでいたことが実は誤謬であったと知ること、知っていると思っていたが実は知らなかったと知ることは、とても貴重な知識を得ることであって、もしかしたら人間にとってもっとも大切な知識を得ることかもしれない、とわたしは思っているのです。だからわたしは積極的に批判し、積極的に批判を求めるのです。