佐倉さん久しぶりです。ただのひとです。
今日は「その他の来訪者の声」のKevinさんの記事に対する佐倉さんの応答を読 んで考えたことを書かせていただきます。佐倉さんは「最後に」で
Kevinさんのように、「みんな間違っちゃいないんだよ・・・・もっと言うな ら、みんな間違ってるのかもしれねぇな ぁ」、などといっていたら、いかなる科学的・技術的進歩もありえないし、民主 主義の必要性もなければ、選挙の必 要性もありません。国家の方針を定めることもできません。いったい、生徒の心 を傷つけるからといって、みんなに 100点をやる先生がいるでしょうか。「思いやりがある」からといって、未熟 な医者に、危険な手術をまかせられ るでしょうか。「何が正しいか」というきびしい選択をせずして、人類の知識と いうものはあり得ません。そして、 「何が正しいか」という選択をするということは、批判的吟味をするということ 以外の何ものでもありません。『寅 さん』の世界は、お互いの人格を否定せず、言いたいことをお互いに遠慮なく言 いあえるからこそ、すばらしい世界 なのではないでしょうか。
と書かれています。
わたしは国家の方針を定めたり、教師が生徒のテストを採点したり、医者が手術 をしたりする、いわば事実のレベルに関する処理は、佐倉さんのおっしゃるよう に「何が正しいか」を厳しく選択吟味すべきものと思いますが、人の生き方や、 信仰の問題のような価値的なレベルの事柄はやはりKevinさんのおっしゃるよう に「みんな間違っちゃいないんだよ・・・もっと言うならみんな間違ってるのか もしれねぇな」のような言明も可能だと思います。このようなレベルの問題に、 事実のレベルの問題を処理するときに用いるのと同じ手法で取り組むことはいか がでしょうか。人の生き方の問題は、やはり論理的整合性の問題としては片づけ られないと思うのですが。
佐倉さんが何かを「正しい」と認めるときの基準や方法について簡潔にご説明願 います。
人の生き方の問題は、やはり論理的整合性の問題としては片づけ られないと思うのですが。わたしは人の生き方の問題についてとやかく言ったつもりはありませんが、たしかに、おっしゃる通り、人の生き方の問題を単なる論理的整合性の問題に還元することはできません。しかし、信仰の問題であれ、人の生き方の問題であれ、わたしたちのかかえるほとんどの問題は、日常の事実や歴史的事実と完全に隔離して存在しているわけでもありません。したがって、わたしたちの人生観や信仰のなかに、事実や歴史に関する主張があるとすれば、それがきわめて私的な人生の問題であろうと、個人的な信仰の問題であろうと、本人が好むと好まざるとに係わらず、真誤の問題や論理的整合性の問題は必然的についてまわります。
佐倉さんが何かを「正しい」と認めるときの基準や方法について簡潔にご説明願 います。「真理、論理、および真理の根拠」と題して拙論にまとめてみました。そちらをご覧下さい。