探求の姿勢とは、猜疑の姿勢ではない。探求心とは、猜疑心ではなく、疑念の心でもない。そのような心が起きた時、もはや修業の途上にはないと言わざるを得ない。そのような時、その者はもはや修行者とは言われない。・・・・決して、何も批判を口にしてはならない。・・・信仰とは、百パーセントの信仰にして、九十九パーセントの信仰はありえないのだ。九十九パーセントの信仰はゼロに等しい。信仰は、百パーセントを求める。それは、仏(大川隆法)はすべてであるからだ。うーん、凄い曲解ですね。それ(大川隆法著、『仏陀再誕:縁生の弟子たちへのメッセージ』、308〜317頁)
これは一言で言えば、「わたし(大川隆法)が脳の仕事するから、お前達は、何も考えないで、わたしの手足となって働け」、ということに他なりません。これは典型的な洗脳教育といっても過言ではないと思います。どうなのでしょうか、それとも、グラールさんは、「そんなことはない、わたしは自由に大川総裁の考えを疑ったり、批判することができる」、とお考えですか・・・
(佐倉)
人からの押し付けじゃありません
大川先生を仏陀と信じることがなんで「洗脳」なの
これは自分の魂の疼きに基づいた主体的な「判断」なのですよ
まあ、信仰の「無い」方に何言っても無駄かもしれませんが・・・
ふなりゅう
いろいろなことを人間が信じるのは自由ですが、たとえ信じても、おのれの信仰を疑ってみることの大切さを奪おうと試みるところに、大川さん(やその他多くの教祖たち)の「教え」の特徴があります。 そして、疑うことを許されない思想を「主体的」に選ぶのは、自由の自殺ではありませんか。「自由であると思い込んでいる奴隷」ではありませんか。