はじめまして。イジメについての議論が気になりました。

簡潔に言わせていただければ、佐倉さんのはかなり乱暴な論だと思います。依怙地になっているのではないかとさえ思われます。

1、人の行為の原因が「環境」か「自由な選択」か、という二者選択は不毛で古臭い議論です。 人は価値によって環境に働きかけもし、また環境からの働きかけによって価値を変化させるものでもあります。 どちらが先か? 卵かニワトリか? 全く不毛です。イジメ自殺をなくしたいのであれば、両方に働きかける必要があります。

2、佐倉さんは、「環境がいじめ自殺に追い込む」という風説を信じる子どもたちが社会から一人もいなくなれば、いじめ自殺は完全になくなるのではないでしょうか。」と言われてますが、全く同様に、「いじめる者が社会から一人もいなくなれば、いじめ自殺は完全になくなるだろう」とも言えますよ。何にもされていないのに「いじめられた」と感じて自殺する人もいるかもしれません? それも無いとは言えませんが、そんな例外的なことを議論しているのではありませんよね。

いずれにしても、「いじめられているけど自殺しない人がたくさんいる社会」より、「イジメをする人がいない社会」を目指す方が真っ当だと私は思いますが。

(1)人の行為の原因が「環境」か「自由な選択」か、という二者選択は不毛で古臭い議論です。 人は価値によって環境に働きかけもし、また環境からの働きかけによって価値を変化させるものでもあります。
わたしは、人に対する環境の影響を否定しているのではありません。人は環境の奴隷ではない、と言っているのです。同じ環境にあっても人によって異なる対応をとるのは、人に行為の選択肢があるからです。いじめという環境に対して、ある子供は自殺という対応を選択するかもしれませんが、大多数の子供たちは自殺とは別の選択肢を取っています。つまり、いじめといじめ自殺の間には必然的な因果関係はないということです。「逆境に打ち勝つ」といった事態が可能なのは人が環境の奴隷ではないからでしょう。

(2)「イジメをする人がいない社会」を目指す方が真っ当だと私は思いますが。
一見当たり前のように見えるその考えのどこに問題があるか

「イジメをする人がいない社会」ができればもちろんそれが一番良いのかもしれませんが、現実は、大人の社会から犯罪を無くすことができないように 、いじめを子供社会からなくすことはできません。大人が子供たちに対して「いじめをやめましょう」と訴えることは、大人が大人の社会に対して「犯罪はやめましょう」と訴えることと同じぐらい滑稽です。大人たちが自分たちの社会から犯罪を無くすことができないのに、こどもたちにそれを要求するのは無理というものです。

「AをなくせばBがなくなるから、BをなくすためにAをなくすことに専念しましょう」という主張の問題は、「もしAはなくならないものなら、Aをなくすことに専念している限り、Bは決してなくならない」というところにあります。だから、「いじめ自殺をなくすためには、まずいじめを社会からなくしましょう」という、一見もっともらしい訴えは、実質的には、いじめ自殺の問題を棚上げ(当事者を見殺しに)することにほかなりません。

それだけではありません。繰り返してわたしが指摘しているように、子供たちがいじめ自殺する目的は、自らが犠牲になることによって、自分のことを「かわいそうに」と同情した大人たちが、自分に代わって、敵(自分をいじめたものたちやそのいじめを許した社会)を懲らしめてくれる、という物語のヒーローになることだとすれば、「いじめ自殺」があるたびに、そして、それに反応して、大人が「イジメをする人がいない社会」を目指して大騒ぎすればするほど、それを期待して(自分も自殺すれば、このようになるのだと)自殺する子供たちがますますあとを絶たない、という悪循環に陥いります。現代の日本社会はまさにその悪循環のまっただ中にあるのではないでしょうか。

いじめ自殺はなくせる

いじめとちがって、自殺は取り返しがつかない事態をまねきます(死人に生のやり直しはできない)から、いじめそのものより、その解決はより急を要します。しかも、いじめと違って、いじめ自殺は限りなくゼロに近づけることができます。そして、それはそれほどむずかしいことではありません。いじめといじめ自殺を因果関係の一直線で結ぶ妄想を一掃し、いじめといじめ自殺を別々の問題として取り扱えばよいのです。いじめはその行為そのものを犯罪として扱い、いじめ自殺はその必然性のなさを明らかにして、いじめられたことには同情しても、自殺を選んだことに関しては率直に批判してあげねばなりません。

いじめという犯罪行為に対しては、自殺以外に無数の対応の仕方(忍耐、復讐、逃避、訴訟、等々)があり、その中から、わざわざ「自殺」を選択したその個人的な理由を、明らかにすることが大切だと思います。だから、そこに光を当てることに何の努力もしないで、相も変わらず、しかも逆効果にしかならない、「いじめをなくせばこんなことにならなかったのに」ということしか考えられない日本社会に対して、わたしの最大の不満があります。

いじめ自殺のもう一つの理由

いじめ自殺者が自殺を選択する理由は「自殺すれば悲劇の主人公になれる」である、というのがわたしの考えですが、最近では、それに加えて、「自殺が一番努力を要しない楽な方法だから」という理由もあるかもしれないと考え始めています。いじめに直面してできる対応としては、自殺以外に、忍耐、復讐、逃避、訴訟、等々をあげられますが、それらはいずれも、かなりの持続的努力を要します。自殺は、極度な恐怖と不安を感じるのでしょうが、それは、瞬間的なものであり、「逃げ場のないかわいそうな犠牲者としての自分」という自らが描いた悲劇の物語によって自分の感情を極度に高揚させることによって、乗り越えられるものなのでしょう。こうして、自分は何の努力もしないで、社会にいじめの復讐をさせることができるというわけです。