貴サイトを拝見しておりまして、私もどうにも納得の 行かない記述がございましたので、お手紙申し上げました。

まず導入と致しまして、私の経歴からお話したいと思います。 私は幼稚園の頃から大学卒業まで、絶えず苛められておりました。 特に中学校当時は学校中の生徒から言葉の暴力を受け、 私が廊下を歩くと生徒が皆廊下の両脇に張り付いて避け、 口々に罵る程のものでした。 やがて私が通っている学習塾でも同じ学校の生徒が苛めを始め、 苛めはその塾に通う他校生にも伝波し、 こうして私は地域中の学生から苛められる様になりました。

学校では何度も苛め問題は取り上げられましたが、 一時的に収束するもののまた復活して激しさを増し、 塾は風評を恐れてか「苛めなどない、気のせいだ」の一点張り、 親などは「お前が悪いから苛められるのだ」などと 的外れな事を言い出す始末。 当然私も最初は、「苛めから逃れるために」自殺を考えました。

しかし、ここで不思議な事が起こる訳ですよ。 長年色々な人に否定されていると、その内思う様になる訳です。 「苛めている奴らの言っている事の方が正しいんじゃないのか?」と。 「大多数の人間に苛められる程、自分はダメな存在なんじゃないのか?」と。

それから私の自殺したい理由は「自己嫌悪」になりました。 当然苛めている側が正しいかも知れないので自分が自殺する事での苛めた側への告発などというヒロイズムは生まれよう筈もありません。

そうして私は自殺未遂を重ねました。 手首を切ったごときでは死ねないと分かると、今度は首吊りも試しましたが、 壁に打ち付けた縄をかけるフックが外れ、これも未遂に終わりました。 今でも私は自殺しようかどうか日々悩んでいます。 私が今なかなか自殺に踏み切れないのは純粋に 「死んだ後にはどうなるのか」と言う未知への恐怖があるからです。

大人になった私は、自分の心理状態が「鬱病」の症状と重なる事を知り、 この「自己嫌悪する様な内容しかない自分」がなんとかならないかと 精神病院へ通い始めました。 精神科の医師は言いました。 「他者からの評価ばかり気にせず、自分でも自分の価値を見出しなさい」と。 しかし私には納得が行きませんでした。 他者の評価と自己の評価を両立させようとすると、 「私は生きるべきであり、かつ、死ぬべき人間」と矛盾が生まれてしまいます。 私には大多数がする私への評価の方が妥当性が高いとしか 思えませんでしたので、やはり、「自己嫌悪」せざるを得ませんでした。 やむを得ず、私は薬によって落ち込む気持ちを和らげ、 日常のさ末事に没頭する事によって、何とか毎日過ごしております。

当然「自己嫌悪」が消えない為、就職もできるとは思えず、 実際就職活動で数十社受けても全く受からなかった事もあり、 今流行の引き篭りニート生活爆進中です。

私が私の経歴を通して挙げる疑問点は、おおよそ次の様な事です。

(1)「苛め自殺を悲劇性の演出」とあなたは断言されるが、 私の様な例はどうお考えでしょう。 ちなみに、自殺未遂の時、私は誰にも予告せず敢行し、遺書も書いていません。

(2)「ひとが自殺を選ぶのは、自殺を利用するある特殊な思想 (『天国で結ばれる』『責任をとる』『国の犠牲になる』 『これ以上迷惑をかけたくない』『社会悪を糾弾する』など)による」 とありますが、私の場合は「自分が嫌いで、惨めだから」という 「感情」で自殺未遂にまで到ったのであって、 これと言う「思想」はありません。 それでも、苛めが自殺未遂の遠因にはなっています。 つまり経験的に私は、苛め自殺の中には感情論によるものも多いと思うのです。 苛めが「辛い」から、いじめられる様な自分が「嫌」だから等と言う風に、 感情が高ぶった時、自殺が起こる場合もあるのではないでしょうか。 苛め自殺をした全員が全員、冷静に思索した末 死んで行くなど有り得ないと思います。

(3)「自殺はいけない事だ」と言う固定概念が、あなたにはある様に思えます。 何故自殺以外の道をそんなに力を入れて推奨されるのでしょうか? 遺族の事を考えて、とよく言われますが、 懐疑的に考えると、自らの死後もこの世界が 存続する保証などどこにもありません。 自殺は全ての可能性を失ないますが、 全ての悩み・苦しみを一気に終らせる事ができる唯一の方法です。 自殺をもっとポジティブに捉える事はできませんか?

(4)「人間の行為は環境によって決定されると言う 考え方は、人間の自由意思を否定する」 と言う考え方は分かりますが、 「人間の自由意思」とはある程度傾向化されるものではありませんか? 仮にデコレーションケーキが目の前にあり、 そのケーキについてどう思うか聞かれれば、 「綺麗」「美味しそう」と答える人が多いでしょう。 とすれば、酷い苛めにあった時「自殺する」という 選択をする人が多くても、やむを得ないのではないでしょうか。

(5)苛めは損得感情や楽しみの為だけではなく、 「苛められている人間の悪い所を正させる」 と言うつもりで苛めている人間もいます (私を苛めていた人間の一部はそう公言していました)。 歪んだ正義感に燃えて苛めをする者もいるのではないでしょうか。 まあ、「正義感を満たす→自己満足→得」と言われればそれまででしょうが。

(6)話はややずれますが、「子供に道徳教育は必要ない。 自ら学ぶ。道徳は価値観だから」 とおっしゃいますが、人の価値観にもやはり傾向性があるのではないでしょうか。 そしてその傾向性が法等を生み出しているのでは? とすると、親は子供に最低限の 「価値観の傾向」を教えるべきではないですか? 自らの価値観が確立される前に成された悪事に対して、 どう落とし前をつけるおつもりですか? (特に殺人等の場合、一度失なわれた命は 二度と戻って来ないのです)

(7)「愛情が生きていく上で不可欠である様に思われるのは、 心からやりたい事を持っていないから」とおっしゃいますが、 翻れば、「やりたい事がない人には、愛情は必要不可欠」なのですから、 愛情が不可欠な人はいるのではありませんか?

以上、大変長い上、質問だらけの内容で、申し訳ありませんが、 お答え頂ければ幸いです。 それでは、失礼致します。

(1)「苛め自殺を悲劇性の演出」とあなたは断言されるが、私の様な例はどうお考えでしょう。
基本的に、いじめ自殺の悲劇とは、外部の力(いじめ)によって、自分の力では避けられない破滅的結末(死)を迎えることです。自殺という形態を取ってはいますが、その内実は(いじっめっこらやそれを許した社会による)他殺である、というのがそのストーリーの内容です。その中で、自殺した(=殺された)子は同情の目を一身に集める「かわいそうな」悲劇の主人公に昇華されるわけです。

ところで、いじめられた子供が、外部からのいじめに対して、自殺とは別の対応(忍耐、復讐、逃避、訴訟、等々)も選択できたのだとしたら、この悲劇の物語は台無しになってしまいます。なぜなら、かれの自殺は「自分の力では避けられない」行為ではなくなってしまい、悲劇性が希薄になってしまうからです。他殺によって殺された「かわいそうな」悲劇の主人公ではなく、必然性のない死を自ら選ぶ愚か者に陥ってしまうからです。

このいじめ自殺の悲劇の物語を自らの頭の中で完成させた子供たちが自殺(物語の実演)をし、そのような物語を造り上げることのない子供たちは自殺しない、というのがわたしの考えです。天空風牙さんは、いじめ自殺の悲劇の物語を作ろうとされています。「『自分が嫌いで、惨めだから』という『感情』で自殺未遂にまで到った[が、]苛めが[その]自殺未遂の遠因」であったとか、「『人間の自由意思』とはある程度傾向化される[ので]、酷い苛めにあった時『自殺する』という選択をする人が多くても、やむを得ない」というような考え方にそれは示されています。つまり、天空風牙さんは、自殺を自らの力では避けることのできない他殺(いじめた奴らやそれを許した社会の責任である)と信じたいのです。そうすれば、自らが「かわいそうな」悲劇の主人公になれるからです。しかし、幸運なことに、天空風牙さんのその悲劇の物語はどうやらまだ未完のようです。

(2)苛め自殺の中には感情論によるものも多いと思うのです...。全員が全員、冷静に思索した末死んで行くなど有り得ないと思います。
いじめ自殺の悲劇の物語の作り方に関しては、当然、いろいろなものがあるでしょう。驚き泣き崩れる親の顔を思い浮かべるだけの単純な物語(感情論)から、自らの自殺が社会的に問題となり、いじっめっこらや学校が社会的批判の的になり、自らが社会を改善する契機とさえなることまでストーリーのなかに組み込む複雑な(冷静に思索した)物語まで、いろいろあるでしょう。

(3)「自殺はいけない事だ」と言う固定概念が、あなたにはある様に思えます。
わたしはいじめ自殺を認めません。いじめ自殺の悲劇の物語は虚構(うそ)だからです。いじめは自殺の原因ではない(いじめの対応には無数のやり方がある)のに、いじめを原因にする(いじめられて仕方なくやった)ことにして、自らを「かわいそうな」悲劇の主人公に仕立て上げる虚構の物語だからです。

(4)「人間の自由意思」とはある程度傾向化されるものではありませんか?・・・酷い苛めにあった時「自殺する」という選択をする人が多くても、やむを得ないのではないでしょうか。
出来事が必然的なもの(100%=必ず起きる、0%=絶対に起きない)でない限り、確率(傾向)は個々の行動を決する要因にはなり得ません。結果の確率が未然にわかっている場合でさえ、特定の個の結果を未然に知ることはできません。だから、合格率が10%(100人採用の試験に1000人応募した)とわかっていても、採用数をはるかに超える人々が試験に臨みます。確率は特定の個の結果(だれが合格するか)についてなにも語らないからです。つまり、「900人が試験に落ちたのは90%の不合格率の故である」とは言えても、「このわたしが試験に落ちたのは、90%の不合格率のせいである」とは言えないわけです。

(5)「苛められている人間の悪い所を正させる」 と言うつもりで苛めている人間もいます
そういう人もいるかもしれません。

(6)親は子供に最低限の 「価値観の傾向」を教えるべきではないですか? 自らの価値観が確立される前に成された悪事に対して、 どう落とし前をつけるおつもりですか?
親であろうと教師であろうと、(正義・不正義の)価値観というものは、子供に教授できるような代物ではありません。親や教師は自分がどのような価値観を持っているかを語ることはできますが、それを子供たちに伝授することはできません。価値観とは畢竟個人の<好み>だからです。<好み>は個人が成長するなかで本人が身につけていくものです。したがって、どのような価値観を身につけているかは本人の責任です。「価値観が確立される前に成された悪事」などというものはありません。それは単なる事故(あそんでいた銃が発砲した)か、そうでなければ(つまり、殺す意図を持っていたなら)、そのような行為を好む価値観をかれはすでに身につけていたということになるでしょう。

(7)「愛情が生きていく上で不可欠である様に思われるのは、 心からやりたい事を持っていないから」とおっしゃいますが、 翻れば、「やりたい事がない人には、愛情は必要不可欠」なのですから、 愛情が不可欠な人はいるのではありませんか?
やりたいことは(植物人間のような病者でない限り)だれでも見つけることが可能ですから、やりたいことがない人も「愛情が不可欠」ということにはなりません。