このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。
98年3月11日
3月1日付山陽新聞の読者投書欄に少年事件についてTさん(18歳高校3年生)の意見が載っていたので以下記します。
(痛みや我慢知らせる必要も)以上。最近、急増している少年による殺傷事件。少年たちは人間を人間として感じておらず、痛みを知らないように思える。これは人間としての基礎を形成する幼児期の家庭内での教育に問題があると思う。
痛みは、自分が同じ痛みを経験してこそ感得し得るのである。この教育が徹底していない原因の一つは、親が子供を過保護に育てることだ。親は子供をハレモノを触るように育てた結果、子供は痛みを知らず、我慢することも知らずに、すべてが自分の思うままになるという感覚が強くなるのだと思う。そうした環境で育った後、学校という大勢の人との共同生活の中で、今までは常に満たされていたものが満たされなくなることで「キレる」のだろう。
確かに現在では、核家族化、両親の共働きなどで子供たちが他人、さらに家族とさえ触れ合う機会が減ってしまっている。しかし、保育園や幼稚園で、人と自然と触れ合うことを学べるだろうし、そうするように努めるべきなのだ。そして、第一には家庭でしっかりコミュニケーションを図り、知能面での人間形成に力を入れるのではなく、人間的感情を育てることが先決だと思う。そうすれば、痛みや限度などが自分で分かるようになるのだ。もう「まさか」「信じられない」などを言っている余地はないのだから・・・。
98年3月21日
子どもは、よほど特殊な監禁状態のなかで育てられたのでない限り、きわめて多様な人々との出会いをしながら成長していくものです。子どもが接するのは親や教師だけではありません。しかも、親や教師や友人や隣人などだけでなく、書物やテレビなどを通して、直接に出会うことのできない他国や過去や創作の中の人々と出会うことができます。
この多様な出会いの中で複雑な交流経験を通して、子どもは成長していくのですから、子どもの問題を単純に親や教師や環境のせいにすることはできません。また、とくに、子どもが成長するに連れて、書物などを通して出会う人々の影響の比率は、直接出会う親や教師の影響に比べて、大きくなっていくだけでなく、いかなる人物に出会うかは、ますます本人の自主的な選択に依存していきます。
さいわいに、現代のように、書物や他のメディアは、たとえば戦時中のように政府が国家全体を監禁状態にした時代と異なって、政府の規制から比較的自由ですから、いかなる書を手にするか(あるいは一切の書を無視してゲームに奔走するか)は本人の選択に依存しています。したがって、子どもの成長過程においていかなる人々から影響を受けたかについては、本人にも選択責任があります。
絶対に試みるべきでないことは、人格教育(「人間的感情を育てること」)です。いったい、わたしたちは、自分たちを何様だと思って、他人の人格や感情をいじくりまわすことができるというのでしょうか。いったい、どこの誰が、人格教育の権利や能力を持っているのでしょうか。人格教育とは、わたしに言わせてみれば、自分の都合の良いように他人の感情や性格を改造しようと試みる、人間存在に対する最大の犯罪です。しかも、それは必ず失敗する犯罪です。先回も指摘したように、人格などというものは教授できるものではないからです。
わたしたちがなすべきは、わたしたちの出来ることでなければなりません。それは、基本的に三つのことです。
(1)親は子どもに衣食住を与える。それ以外のことを、親や教師や政府がやろうとするのはつつしむべきだと思います。あとは、すべて個人の自由であり、個人の責任です。
(2)教師は「読み・書き・算盤」その他の知識・技術を教授する。
(3)社会はそれぞれの時代の要請に見合った最低限の規則を作り実行し、犯罪者は罰する。
人の心に関するものは、人間の自由に関するものです。オウム真理教のマインド・コントロールを否定するなら、親や教師の子どもに対するマインド・コントロール(人格教育)も否定すべきです。親や教師の子どもに対するマインド・コントロールを許すなら、わたしたちはオウム真理教のマインド・コントロールを非難することは出来ません。人の心に立ち入ることは、相手が子どもであれ、大人であれ、慎むべきであると思います。本人が自主的に心を許す相手だけが、その人の心の中に立ち入ることを許されるべきです。
ご意見、ありがとうございました。