佐倉さん、こんにちは。takapです。

無我論への感想の続きです。

(1)輪廻転生と生天の教えについて

中村元博士の著書から分かることは、最初期の仏教は転生輪廻・因果応報を受け入れていたということ、ゴータマ・ブッダは転生輪廻・因果応報を認めたうえで教えを説いていたということです。

しかし、「中村博士」はそれ(因果応報)を方便として受け入れたのであろうと「解釈」していることです。これは中村博士が研究者であり、修行者ではないのですから、致し方ないように思います。


(2)ダンマパダ176について

ところで、引用されている、早島鏡正訳の「ダンマパダ」176
唯一の教えに違い、妄語をいい、来世の存在を信じない者には悪としてなされない悪はない。
で「来世の存在を信じない者」と訳されているところは「vitinnaparalokassa」すな わち「彼岸の世界を無視している人」です。「来世」も「信」も本文にはありません 。中村氏は、「来世を信じない者」と言う訳の問題点を指摘し(『真理の言葉・感興 の言葉』岩波文庫93頁)、「字義の通おりにに解すべき」、と言われて、次のよう に訳出されています。
唯一なることわりを逸脱し、偽りを語り、彼岸の世界を無視している人は、どんな悪でもなさないものは無い。

中村元訳、同上、34頁)



 vi     分・離・別・異・反
 tinna   渡れる・度脱せる・超えたる

 vitinna  越度せる・越えたる・捨てたる 

 para   彼岸の・彼方の・他の
 loka   世・世間・世界

 paraloka 他界・来世

  (「パーリ語辞典」水野弘元著 春秋社)
むしろ、直訳すれば「他の世界を捨てた者」「他の世界を認めない者」としたほうが適切です。原始仏教でも、当然ダンマパダでも因果応報が当然のように説かれていますから、「来世を信じない者〜」という訳は「為したことの報いを認めない者はあらゆる悪を為す可能性がある」という意味となり、適切であるように思います。「彼岸の世界を無視する人」は「どんな悪でも為さないものはない」となると、他の詩句とも意味が合わなくなります。中村博士が、この詩句を転生輪廻と無関係なものとして訳したいという気持ちは理解できますが、転生輪廻を当然のこととして認めていた当時に説かれた教えとして「来世を信じない者」「他の世界を認めない者」と訳すのが適切だと思います。


(3)ブッダの思想と転生輪廻

よく知られているように、チベットの仏教はチベットの土着信仰と結びついており、中国の仏教は中国の土着信仰を取り入れており、日本の仏教は日本の土着信仰と結びついています。インドの仏教もインドの土着信仰が取り入れられています。輪廻思想はインドの土着信仰であり、たまたま仏教教団が、輪廻転生を土着信仰とするインドで活動したから、それに言及し、また、それを方便としてさまざまな教えが説かれただけです。ある地域に特殊な民間信仰や伝統に過ぎないものは、ブッダの思想の普遍的な部分ではなく、したがって、ブッダの思想の本質的なものと考える必要はありません。

ブッダの思想の本質的な部分はもちろん大事です。しかし、教えの説かれた前提(転生輪廻)を否定するなら、本質的な部分の解釈も間違ったものになると思います。

それに輪廻思想はインドだけのものではないと思います。様々な時代、いろいろな地域で説かれています。それは、やはり真実であるからだと思います。


(4)初期仏教思想とウパニシャッド

反論と(誤解)して引用されている三枝氏の意見も、わたしの意見と同様のものです。すなわち、「初期仏教の根本的態度」の一つとして「形而上学の批判」を三枝氏はあげておられまが、その初期仏教における形而上学批判の態度は「いわゆる『無記』、すなわち形而上学に触れる問いに対して答えないという態度に、明瞭に見られる」と語られています。三枝氏はここで、わたしと同じように、「無記」によってブッダが否定したのは、ウパニシャッド哲学ではなく、「形而上学一般」つまり、形而上学そのものの否定である、と言われているのです。(『初期の仏教思想』41頁)

ところで、もちろん、形而上学的存在とは現象として知覚できない領域に関するひとびとの論議が生んだ概念ですが、ウパニシャッドの説く恒常のアートマンはまさにそのようなものでした。

すでに書きましたように、佐倉さんのように仏教の教え(無記など)をウパニシャッドのアートマン論と短絡的に結びつける人々がいるので、三枝充悳氏は「形而上学と無記」という章を一つ設けて、
ここでは前者の「形而上学の否定」ということにしぼって、論んじて行くことにしよう。それはいわゆる「無記」、すなわち形而上学に触れる問いに対して答えないという態度に、明瞭に見られ得る。そして、さらに、この場面において、そこに否定される形而上学が古ウパニシャッドのそれであるか、それとも形而上学一般であるかという問題についても触れなければならない。(同P41)
このように形而上学一般と古ウパニシャッドの形而上学をわざわざ区別し、
「十難無記」ないし「十四難無記」と古ウパニシャッドの形而上学とは 無関係である (同P57)
と結論を下しているのです。 また、「十二縁起」説についても、
ただしそもそも「十二縁起」説そのものが、ある形而上学説への否定、とくに古ウパニシャッドの説いた形而上学否定をめざしていた、とまで論理を拡大するのは、行きすぎであろう。(P45)
また、続く「アートマンと無我」という章においても、
すなわち、初期仏教では、いわゆる「無我」が説かれて、いわゆる「アートマン」の否定が主張されたかの如く考えられるけれども、それは決して、古ウパニシャッドの「アートマン」説のアンティテーゼなのではなく、古ウパニシャッド説に直接対抗するものではない。そのことが本稿の趣旨である。
このように三枝氏は、もともとは古ウパニシャッドと無関係に説かれた初期仏教の教えが古ウパニシャッドのアートマン論を否定していたかのごとく論理を拡大し、解釈されがちであることを戒めているのです。


(5)常住不変のアートマン

ブッダは、「アートマンは存在しない」という全称命題的言明を意図的に避け、人間存在を成立させている要素[色・受・想・行・識]の一つ一つ取り上げて、これも無常であるから(常住であるはずの)アートマンではない、あれも無常であるから(常住であるはずの)アートマンではない、というふうな仕方で、知覚し経験できる範囲内の事柄に関してのみ言及するという方法をとっている・・・(「ブッダの主張」)
わけです。ブッダは形而上学的ことがらについては沈黙したといわれるのですから、「アートマンは存在しない」となどと主張せず、知覚し経験できる、人間存在を成立させている要素(色・受・想・行・識)のひとつひとつに対して、これも非我なり、これも非我なり、と否定する方法を取ったわけで、それはまことに理にかなったものです。
再三申し上げてきたように、初期仏教でいうアートマン(自己)はウパニシャッドでいうところの「常住不変のアートマン」という意味ではないのですから、仏教をウパニシャッドのアンチテーゼとして、一方の「極端」である断滅論と解釈するのは間違いだと思います。


(6)仏教とジャイナ教

仏教はジャイナ教と同じく諸要素の集合論をとる。しかし、ジャイナ教が業物質の担い手としての霊魂(ジ−ヴァ、生命体)を想定したのに対し、仏教は肉体を物質(色)の要素一本にまとめる代わりに、こころを感覚(受)・想念(想)・意志(行)・認識(識)の四種の作用に分解し、そのいずれもがアートマン(霊魂)ではない、という論理で、間接的に霊魂の実体性を否定し、同時に業とはそれらの心身の営むはたらきとみることで徹底した。(高崎直道、『インド思想論』、法蔵館、12頁)
「無我」を「霊魂やアートマンは存在しない」と解釈することは、一つの極端です。

また、ジャイナ教が霊魂を想定したのはマハーヴィーラの考え方の影響だと思います。たとえば、同じ問いに対してもマハヴィーラとゴータマ・ブッダでは答え方に違いがありました。

形而上学的問題について二つの見解が相対立した場合に、 ブッダは解答を与えることを拒否したが、マハーヴィーラは 形而上学的見解に興味をもっていた。そうして、見方(naya) の立場をとって、ある点から見ると、こうであるが、他の点から見ると、そうでなくて、反対の命題が成立し得ると考えた。

(「原始仏教の思想