佐倉様
実は、曽我逸郎さんの「あたりまえのことを方便とする般若経」は、既に愛読者のひとりとなっております。私の今の仏教の師匠は、佐倉さん、曽我さん、佐々木ぴょん吉郎さんと勝手に思い、三人の先生が書かれたことを参照しながら学んでいっているところです。
ところで、「あたりまえのことを方便とする般若経」ですが、日本人が作った最初のお経かもしれない、という指摘は鋭いです。言われるまで気づきませんでした。更に素晴らしいことですが、「あたりまえ」を訪ねたら、曽我さん自らが引用・加筆・改作に関する許可を出しており、この現代に甦った経典が、更に発展していく可能性を秘めたものになったことを知り、新たなる歓びを感じております。
かつての大乗経典の成立もインターネット的であり、そして現代のインターネットも新たなる大乗経典成立へと繋がっていくかもしれない。興味深いです。
キリスト教の方も可能性を秘めた試みはないのでしょうか...
曽我逸郎さんご自身は、ご自分で書かれたお経を「偽経」と呼んでおられますが、仏教のお経、とくに、大乗仏教のお経はすべて「偽経」、つまり、史的ブッダが説いた言葉を書き残したものではなく、ブッダの思想を伝えようとした人びとの創作した宗教文学でした。曽我さんのそれも、仏教のそのような伝統に基づくものであって、とてもすばらしいものだとおもいます。
いまだに、日本では、「ハンニャ〜ハ〜ラ〜ミ〜ツ〜、云々」と、日本語でもなく、中国語でもなく、サンスクリット語でもなく、パーリ語でもなく、マガダ語でもない、変な言語でお経が読まれていますが、はやく、こんなばからしい習慣はやめて、だれにでもわかる、曽我さんのお経のようなものが、これからもたくさん生まれることを期待しています。
キリスト教の方も可能性を秘めた試みはないのでしょうか...キリスト教ではきわめて困難であろうと思います。聖書は、仏典と違って、人間の思想を人間が伝えている書物としてではなく、「神の言葉(啓示)」として崇められている、ひとつの閉じられたシステムだからです。
この書物の預言の言葉を聞く者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災い(「火と硫黄の燃える池」に投げ込まれること)をその者に加えられる。これははなはだ自分勝手な主張です。しかし、ヨハネがこのようなことを書かねばならなかった背後には、それを充分に理解できる理由もありす。なぜなら、もし、誰でもかれでも、自分の心に思いついたことを「神の言葉」であると主張し始めると、収拾がつかなくなってしまうからです。このことが初期の教会で問題となっていたことは、新約聖書に書き残された資料から容易に推測できます。(ヨハネの黙示録 22:18)
愛する者たちよ、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。真理というものが神からだけ来る、と信じる宗教は、このように、真理の言葉を閉じなければ収拾がつかなくなることは火を見るより明らかです。しかし、真理の閉じられたシステムは正統と異端を生み出します。閉じられたシステムである聖書は、この正統と異端を区別するための道具として機能せざるを得ません。パウロははっきり言います。(ヨハネの第一の手紙 4:1)
キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなた方がこんなにもはやく離れて、他の福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。
(ガラテヤ人への手紙 1:6)
わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。聖書は新しい真理を歓迎しません。キリスト教がこのような聖書に書かれている人間の言葉を、神の言葉として崇め、その呪縛の下にあるかぎり、あたらしいものは何も生まれてこないと思います。残念なことです。(ガラテヤ人への手紙 1:8b-9)