親鸞の輪廻解釈が空と同じものである、というご意見にはとても興味があります。その へんのところをもうすこし教えていただけたらと思います。やはり、『教行信証』など にあるのでしょうか。こんなご質問を受けると、当方はいてもたってもいられなくなる質なんです。気性を笑ってやってください。仕事が忙しいのでゆっくりお答えしている時間がありません。でも、血が騒ぎます。こんな気分では仕事にもならないので、一報だけ入れておきます。この議論はそのうちゆっくり書きたいと思います。教行信証論の第2版では、この辺ももう少し明らかにしましょう。
親鸞における「空」の思想は、教行信証の真仏土巻で重要な展開をしています。空は、念仏だけで仏になれるという議論の主柱理論です。親鸞は、仏なるということ自体も空で捉えるんです。もともと、念仏だけで仏になれるという議論は、浄土教のどこにもありませんでした。善導大師では、念仏するというのは、仏道修行者の仲間に加わることでした。極楽浄土の主(つまり仏)になることではありませんでした。仏になるには観察行が必須です。これは、浄土教の二大主流、つまり善導仏教・雲鸞仏教の共通した概念です。
これに反対して親鸞は、念仏だけで仏になれるという理屈を立ててきます。親鸞は「空」の論理を応用します。空の論理を使わなければ、念仏だけで仏になれるという理屈は説明できません。
もともと浄土教では、いたるところに空の論理が出てきます。一念の念仏で、八十億恒の罪を消すなどという観無量寿経の主張、これは善導が善導仏教を開いてきた根本思想ですが、罪の「無自性空」を前提にしなければ論理として破綻します。 歎異抄の「罪悪生死の凡夫、恒劫よりこのかた、常に沈み常に流転して出離の縁あることなき身」というのは、まさに「無自性空」の自覚から出てきた言葉です。 高僧和讃の自然法爾論も空を言っています。 数え上げれば切りがありません。
およそ、無名の流刑の転落元坊主が一切の者の救済を考えるなら、およそ「空」の論理を応用しなければ不可能です。
空の論理による救済の原点、それは阿闍世の救いにあります。父を殺し、母を幽閉した阿闍世がなぜ救われていくのか。釈迦が涅槃経で語る議論こそ、まさに空の論理です。親鸞はこれを信の巻で延々と引用します。念仏で救われるというのは、空によります。
とりとめもありません。こんな話を言い出すとますます体中が沸騰してきます。論理的、体系的な議論は、別の機会にゆっくり落ち着いて語りたいと思います。
『教行信証』はいつか読もうと思っていた書なのですが、手ごろな現代語訳をご存知でしたら教えてください。また時間があるときにでも、もっと親鸞と空の思想について語っていただけることを楽しみにしています。