仏教無霊魂説を唱える人の一番の根拠がどうやらマールンキャ・プッタのエピソードからきているようなのでこの説話の意味を考えてみたいと思います。佐倉氏が長く引用しているのでこの資料にもとずいて論を進めます。まず「尊者マールンキャプッタ」とありますが、この尊者と呼ばれたのは彼の晩年のころで、このときはまだあまり修行の進んでいない弟子の一人でした。ブッダはシャーリープトラなど修行の進んだ弟子たちにはもちろん形而上学的なことも説いていました。その内容は後に龍樹によって「八不中道」の法門としてあきらかにしています。

「不生・不滅」・・・魂は生まれることもなく滅することもない。
「不常・不断」・・・永遠に、そのままの姿であるものではない、しかし、死ぬことを通して、すべてが無になるものでもない。
「不一・不異」・・・一なるものでなく、多なるものでもない。生命・魂の神秘
「不来・不去」・・・霊界とは、遠いかなたにあるものではない。
マールンキャ・プッタはこのような法門を自分にもたくさん教えてほしかったのです。資料にもはっきり書いて有ります 「これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。」「世尊がわたしに説かれなかったということは、わたしにとって嬉しいことではないし、私にとって容認できることでもない。」彼は非常に不満であり、プライドが傷ついたようです。サンガを去ろうかとも考えます。わざわざ「わたしに」と言っています。「私たち」ではありません。

しかし、ブッダは彼を諭します。資料をわたし流に意訳すると次のようになります。「マールンキャプッタよ、おまえは何のためにサンガに集ってきたのか。アラカンを目指し修行するためだったのではないか。そのために八正道の法門を与えてあるのではないか。それなのによく修行もせず、自分つくりもできていないのにすべてのことを教えないからといって修行を捨てるとは何事か。もっと初心に帰りなさい。私が説く法門はおまえに必要であるから説くのだ。また説かない法門はおまえにまだ必要がないから説かないのだ。そのように考えなさい。」そこでマールンキャプッタはおろかな自分に気づきブッダの言葉に感激するのです。

私はこのような光景がありありと浮かんできます。この文章からブッダは無霊魂を説いたとどうして出てくるのでしょうか。そしてこの逸話は修行するものの心構えとして大事なことを含んでいるので語り伝えられたのだと思います。

またブッダが常に「無我」(無霊魂ではない)を説くのは大きく二つの理由がありました。一つは無我修行が執着を取り生天(天国へ帰る)のために大事な修行徳目であった。二つ目に当時のバラモンの教え「梵我一如」の間違いを正すためでした。間違った転生輪廻思想をただし、正しい転生輪廻の法則を明らかにしたのです。結局二つとも同じようなことなのですが。このことはまた機会があれば述べたいと思います。

高橋俊彦


このお便りは、前回のお便りへのわたしの応答とすれ違いになってしまいました。無我については、そちらをごらんください。

ナーガールジュナ(龍樹)の八不は、自性論(スヴァヴァーヴァ)批判をまとめたものだと思います。(「空の思想:自性論」)