突然のお手紙失礼いたします。

私は主に考える他人というペンネームでYS氏の哲学掲示板や 宗教のるつぼで投稿している者です。 貴方の龍樹氏の解説は大変素晴らしいものであると思いました。 是非、これからも解説をお願いいたします。

あと学問として宗教を研究されているように理解しましたが、 貴方ご自身の心の平安や救済のため、社会救済のための主体的立場は どのようなものでしょうか?貴方の幸福論にその理解の糸口が 見えるような気が致しました。(無我の思想?) 私自身は、超越的人格とのつながりのみが、真の安心をもたらす ような印象は持っておりますが、それに同意しない人々に対する倫理的な 判断を持つわけではありません。

貴方の益々の御活躍をお祈り申し上げます。



わたしの場合は「超越的人格とのつながり」を求める努力は挫折を迎えました。わたしは長い間、個人救済も社会救済も、「超越的人格とのつながり」(わたしにとっては、キリスト教)に解決を求めていました。しかし、すでにいくつかのところで表明したように、わたしはこの試みに挫折したことを認めるに至りました。挫折の根本的な理由は、「実在としての超越的人格」と「自分の思いこみ」とを区別することができなかったところにあります。つまり、わたしの超越者への信仰とは、結局は、わたし自身の信仰(おもいこみ)への信仰にすぎないのではないかという問題に、わたしは決定的な解決を見ることができなかったのです。超越しているはずの存在が、実は、きわめて非超越的なわたしの信仰(思いこみ)に依存しているのではないか。

この挫折は、図らずも、わたしの心に自由をもたらすことになりました。本当は超越的存在(神、死後の世界、霊界、世の終わり、宇宙の始まり、など)のことなど、わたしは何も知っていないのに、まるでそれを知っているかのように信じる、というような無理を、わたしはもうしなくてもよくなったからです。

おそらく、この(自分の知らないものは無理をして信じなくてもよい)自由を経験してしまったからだと思うのですが、それ以来、信じることによって得られるというさまざまな救済の約束はどれもこれも色あせて見えるのです。

わたしが、自分の救済のための求道ではなく、「学問として宗教を研究」しているように思われるのも、おそらく、挫折したと言いながらも、「超越的存在は事実なのか、それともわたしの思いこみなのか」、とわたしが問い続けてきた問答の、いわば、延長戦をやっているからでしょう。挫折以前との違いは、こころから納得できなくても(救済のために)信じなければならないという苦痛の立場ではなく、心から納得できなければ信じなくてもよいという自由な立場にいることだと思います。

「信ぜよ、さらば救われん!」ではなく、「信ぜよ、確実と思えるものは確実なものとして、あやふやなものはあやふやなものとして、間違いであると思われるものは間違っているものとして!」です。

そして、このようなわたしの立場は、自分の認識の届かない形而上学的な領域に関する断定は慎むという、(初期の)仏教の立場につよく影響されているのではないかと思います。