佐倉さん、お久しぶりです。中山です。

今回の質問は、仏教で言われる「慈悲」とはどのようなものなのかということです。 私自身のイメージでは、人間の苦しみを知り抜いて、人間を受け入れる、という感じ です。 仏教では、正確には「慈悲」という概念は無いのでしょうか? もしあるとしたら、それはどういう意味なのでしょうか?

初心者の質問ですが、どうかよろしくお願いします。


仏教では、正確には「慈悲」という概念は無いのでしょうか? もしあるとしたら、それはどういう意味なのでしょうか?
通常「慈悲」という言葉は仏教を代表する概念とされています。しばしば、教義的に、「慈」は<楽を与えること>であり、「悲」は<苦しみを抜き取ること>を意味する、などと説明されます。

しかし、初期の仏教には「慈」(メッター)という概念や、「悲」(カルナ)という概念はありますが、これらをくっつけた「慈悲」という概念はあまり見当たりません。すくなくとも、わたしは出会ったことがありません。もしかしたら、後代の、中国や日本の仏教の中でできあがった概念なのかもしれません。

しかも、「慈悲(深い)」という中国語・日本語には、なにか、仏から人間へ、師から弟子へ、親から子へ、恵まれた者が恵まれない者へといった、上位にある者が下位にある者に対する愛情のような、上下関係が含意されていますが、「メッター(慈)」にはそういう意味合いはありません。「メッター」という語は、「友」を意味する「ミッター」という語からの派生語で、「友情」を意味します

たとえば、ブッダは、死期を迎える晩年、自分の身の回りの世話を長年してきたアーナンダという弟子に、「おまえはメッター(慈)をもってわたしに付き添ってくれた」と感謝の言葉を述べています。つまり、ここでは、弟子がその師ブッダに対してもつ思いやりのことが「メッター(慈)」という言葉で表現されています。したがって、「上のものが下のものへ」という意味合いを含む「慈悲」という漢訳は、必ずしも、元来の意味をうまく伝える日本語ではないと言えるでしょう。

講談社新書に、ちょっと見ただけでは仏教書とは思いつかない、『友情』(増谷文雄著)いうタイトルの本がありますが、この書に仏教の「メッター(慈)」に関する興味深い考察があります。インドにおける都市国家の登場によって、それまでの血縁関係を中心にした関係を越える人間関係の結びつきが必要となった新しい社会環境と関係する、というのです。

仏教の「メッター(慈)」という概念が、新しい社会環境の影響かどうかわたしにはわかりませんが、それが、血縁関係を越えた関係、すなわち「生きとし生けるもの」への思いやりを意図していたことは、初期の仏典から明らかです。

一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。いかなる生き物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。

(スッタニパータ、「慈経」 145〜147)

我は万人の友なり。万人の仲間なり。一切の生きとし生けるものの同情者なり。慈しみの心を修して常に無傷害を楽しむ。

(テーラガータ、608)

「悲」は「嘆き」や「苦しみ」を意味する「カルナ」という言葉の漢訳です。本来は、おそらく、後代の教義でいうような、「悲しみを抜くこと」という少々よくでき過ぎた解釈ではなく、たとえば、上記にあげたテーラガータに記述されているように、他者の嘆きや苦しみを分かち合う気持ちを持つことを意味するのだと思います。それがまさに<友である>ということですから。まさに、中山さんの感じておられるように、

人間の苦しみを知り抜いて、人間を受け入れる
というのが伝統的な仏教教学の解釈より本来の仏教の慈悲の意味に近いと思います。