初めまして。貴殿のホームページを閲覧させて頂いた者です。

意見を述べるつもりはありませんでしたが、どうしても耐えられず、このように記しております。

全て閲覧した訳ではありませんが、素晴らしい内容だと思われます。しかし、私は卑しくも主を信ずるキリスト者です。それでも、このHPは賞賛に値すると思うのです。

聖書学者、聖イエロニモは「聖書を知らないことは、キリストを知らないこと」と云いました。そう考えると、貴殿はキリストを主と仰ぐキリスト者よりもキリストをご存知かも知れません。

ただ、与えられるがままに聖書を信じるよりも、疑いに疑う方が、よく聖書を学ぶことが出来るようにも私には思えます(ただ、疑いの目だけで聖書を見るのと、信仰の目を以て聖書を見るのとでは、其処から学び取られるものが違うでしょうが)。

私も初め、聖書を疑っていたのですが、いつの間にか主のお導きによってキリスト者の一人となっていました。このHPに来たのも、もっと聖書を知るがよいという主の思し召しだと思っています。

疑うことは必要でしょう。もし何もかも信じてしまったら「私は主の予言者である」と自称する偽予言者をも信じてしまうことになるでしょう。偽予言者に気をつけよというのは主も云われています。気を付ける以上は疑わなければなりません。まず疑って、結ばれる実から真贋を確かめるのです。

私は貴殿のHPの内容に関して異見を展開するつもりはありません。「我々は皆、羊のように迷って、各々自分の道に向かって行った。しかし、主は我々全ての罪を彼に負わせた(イザヤ53:6)」と聖書にはあります。全ての罪はキリストが背負われたのです。貴殿は貴殿の信ずる道を、私は私の信ずる道を歩んでいるだけのことです。神はそれを許されたのですから。

確かに、「神による殺人」は聖書を、そして聖書によって証された主を信じる以上は認めざるを得ません。もし、そんなものは無かったというのであれば、主をも信じないことになるのですから。やはり、それを考えると苦悶に陥ります。慈悲深き神が本当にそのようなことをなさったのか、と・・・・。

しかし、私の救いは神と一体である主キリストが殺された者はいないということです。主に於いて殉教した者は多いことでしょう。ですが、主が自ら手を掛けた者は一人もいません。

それに、主は旧約の教えとは食い違った教えもしています。創世記でレメクは報復主義を唱えていますが、キリストはマタイ18:21−22で7回どころか、7の70倍までも人の罪をゆるせと云っておられます。主は誰よりも人に仕え、人の自分に対する罪をゆるせと教えられたのですから私はそうするまでのことです。

私は思います。主が十字架の上にて屠られ、全ての罪が神をしてゆるされたのであれば、もはや神や主はキリスト者に対して「神を信じぬ者を殺せ」とか「教えを広めるのを阻む者を正義によって消し去れ」とは云わないことでしょう。全ての罪はゆるされたのですから、何人がキリスト者に対して行ったどのような行為もゆるされるはずです。私はキリスト者のみが主の死による贖罪を受けるとは思いません。非道徳なキリスト者と、主の御名は知らないけれども慎ましやかな人とを比べれば、後者の人に救いは多いことでしょう。

もし、神のため、主のために人を殺すというような人々がいるのであれば、み恵みはその人の上には無いでしょう。もし、私の前に主の御使いが立って「逆らう者を殺せ。主はそれを望んでおられる」というのであれば、私はそれに対してこう云うでしょう。「去れ、御使いの姿を借りたサタンよ。主は全ての罪をゆるされた。主は何人の死をも望まれない」と。

主が来たのは正しい人を招くためでなく、罪人を招くため(マタイ9:13、マルコ2:17、ルカ5:32)なのですから、罪人すら救われるでしょう。一番、恐ろしいのは神と主の名を語って、恰も自分がその使者のように振る舞って悪事を働くことです。

しかし、私が何より信じたいのは我々に尊い教えを賜ったキリストと、そしてその尊い教えです。

貴殿に足許を掬われているように、聖書やその教義すらも完璧なものではありません。「これは超越した神的世界のことであって、人間には判り得ない」・・・・そうしてしまったら、どんなに楽なことでしょう。現に、そうして済ませてしまっているキリスト者は多いことでしょう。

でも、聖書や教義を否定しようが肯定しようが、主の残した教えだけは否定出来はしません。

人に尽くして、全てのものを分け与え、人を憎まず、罪をゆるすことと、そうしないのとでは、どちらが人間世界全体にとって有益でしょうか?

私が云いたいのは、ただ主の教えの素晴らしさなのです。

確かに私も主に救って頂きたいと思っています。が、それ以上に主の教えの通り、人に尽くすことが大切だと思っているのです。全ての人の罪を贖うために来臨された主の、その何万分の・・・・いや、何億分の一でも人を助けることが出来たのならば、それはどんなに素晴らしいことでしょう。私の信仰はまさに其処にあると云って過言ではありません。

全ての人に聖書を読んで欲しいと私は思っています。そして、読んだことがあるのだったら、聖書の内容を信じなくても、主の教えられたように、少しでも人の助けとなって欲しいと思うのです。それが主の最も望まれることなのではないでしょうか。もし、多くの人が少しでも他の人のために何かしようと思えばこの世界も少しは住み易くなるのではないかと思います。少なくとも、悪行は減るのではないでしょうか。

佐倉様がどのような人であるかは判りません。ですが、人のために僅かでも何かしようと思っている人であると信じたいですね。キリスト者としてはとても応援出来そうにないかも知れませんが、罪ある人間としてはその勢いに共感出来ます。どうぞ、今後も研究を続けられて下さい。そして、どうかそれが実りの多いものであることを祈って止みません。

乱文ではありましたが、お付き合い頂き有り難うございました。


(1)対立と対話

全て閲覧した訳ではありませんが、素晴らしい内容だと思われます。しかし、私は卑しくも主を信ずるキ リスト者です。それでも、このHPは賞賛に値すると思うのです。
思想的に反対(キリスト教)の立場にいる方に価値を認めていただけることは、とても光栄です。特に、立場の相違が信仰に関係する場合、対話はしばしば困難をきわめるものですから、わたしにとってはとてもうれしいことです。

(2)神の殺人命令

もし、神のため、主のために人を殺すというような人々がいるのであれば、み恵みはその人の上には無いでしょう。もし、私の前に主の御使いが立って「逆らう者を殺せ。主はそれを望んでおられる」というのであれば、私はそれに対してこう云うでしょう。「去れ、御使いの姿を借りたサタンよ。主は全ての罪をゆるされた。主は何人の死をも望まれない」と。
この言葉は、聖書を書いた人々やモーセやヨシュアに対しても言えなければ本物ではありません。そうでなければ、「あなたの宗教の殺人は悪だけれども、私の宗教の殺人は善である」、というはなはだ自分勝手な主張になってしまうからです。

(3)人に尽くすことは良いことか

人に尽くして、全てのものを分け与え、人を憎まず、罪をゆるすことと、そうしないのとでは、どちらが人間世界全体にとって有益でしょうか?
「人に尽くすこと」や「人を助けること」や「他の人のために何かしよう」としたりすることは、本当に良いことなのでしょうか? 自分のためではなく他人のためになす行為は、本人も相手も第三者も、みんながみんな喜びそうな行為だから、それ故にこそ、どこかあやしい、と考えてこの問題に吟味のメスをいれたのはニーチェでした。そして、彼は次のような言葉を残しています。
世話好きで親切な人というものは、ほとんど例外なく、まず助けられる人を用意してかかるという愚かしい策略をするものである。たとえば、相手は助けてやるに値し、こちらの助けをまさに求めているところであり、すべての助力に対して深く感謝して以後は輩下となって服従するであろう、と思い込む。かく自惚れて、彼等は所有品を左右する如くに困窮する者を左右する。もともと彼等は所有品に対する欲求からして、世話好きで親切なのである。

(ニーチェ『善悪の彼岸』竹山道雄訳)

他人のために生きることを生き甲斐とする人生は、常に、困って助けを求めている人の存在を必要とする人生です。わたしの助けを必要としている社会、わたしがいなければ困る社会 --- そのようなわたしを必要としている社会に生き甲斐を感じるような人生観は、本当にすばらしい人生観なのでしょうか。それは本当に「他人のため」の人生観なのでしょうか。むしろ、もしかしたら、ニーチェの洞察が示すように、「困っている人」が「助ける人」を必要としているのではなく、「助ける人」が「困っている人」を必要としている、というのが、事の真相なのではないでしょうか。

助けられる側に立って考えてみて下さい。もし、あなたがご自分の人生を犠牲にしてまでも、わたしの為に人生を費やしているとしたら、わたしの立場はどうなるでしょうか。これほどわたしの人生を苦しく、みじめにするものはありません。わたしのために犠牲になっている人がいることを知りながら、わたしが楽しい人生を送れるはずがないからです。逆に、あなたが、わたしの為などではなく、ご自分のために人生を毎日生きておられたら、わたしは、あなたから完全に自由になれるのです。

あなたを必要としない社会、あなたの助けを必要としない社会、あなたがいなくてもちゃんとやっていける社会、そのような社会こそが、より望ましい社会なのではないでしょうか。もしそうだとすると、他人のために生きなければ生き甲斐を感じられないような人生観は、もう一度、吟味し直してみる必要がありそうです。

「人を助ける」ということについては、深く考えさせられるところがあり、これについては、わたしは他のところでも自分の考えをいくらか延べていますので、それらも、参照して下さい。(「日本の援助の仕方は悪い?」「西欧型援助と日本型援助」)