はじめまして、「きこ」 と申します。
今日、佐倉様のHPの来訪者の声欄に 「マルコ伝の解釈に寄せて--「ひとの子」の意味するもの」と「70人訳聖書と新約聖書:佐倉様と鈴木様の議論に寄せて」の二つの文章を投稿させて頂きました。
佐倉様のHP、堀剛様、岡野なおみ様のHPからのリンクで拝見して、興味を惹かれました。
佐倉様の基本的なお考え、私の理解するところでは、伝承された権威を吟味もせずに受け入れるよりも、ご自身の知的良心にもとづいて納得したものだけを受容するという一貫した態度がとても印象的でした。
私は、司祭でも聖書学者でもない、ただの一人のキリスト者に過ぎません。聖書は、私にとっては、議論の素材であるよりも礼拝と黙想の場で祈り、かつ詩篇として歌うものでした。
聖書を一冊の「外的」な権威有る書物として祭り上げて、偶像に向かうように崇拝の対象とするという姿勢には、私は、信仰よりもイデオロギーに近いものを感じています。
佐倉様のHPでのキリスト者と非キリスト者の論争を読ませていただきまして、皆様が、基本的に聖書を外的な「権威」として重んじているプロテスタントの観点からのみキリスト教を見過ぎているように思いました。
教会が聖書の本文を確定したのは、宗教改革以後のことで、それまでは、聖書は典礼の時に読み上げる資料集というのが基本的な性格だったと理解しています。
私は、もう随分前になりますが、典礼の時に、朗読される聖書の該当個所を書物の聖書で確認しようとして、司祭から「聖書は聴くものであって、読むものではない」と注意されたことがあります。
カトリックでは、聖書は聖務日課や典礼と一体化していて、三年周期で旧約、福音書、使徒書から、教会に伝承された解釈に従って関連づけられた箇所が朗読され、そのあいだに、朗読された聖書のテキストに関連する詩篇が歌われます。
聖書を首尾一貫した一冊の書物として、教会の伝承を離れても自立する書物として権威づけるような傾向は、カトリック教会でも、ないわけではありませんが、宗教改革以前に遡る伝統の中では、「書物として読む聖書」ではなくて「典礼の場で聴く聖書」、祈りと黙想、礼拝の場で聴くものとして聖書が存在していたと思います。
私は、カトリック教会の洗礼を受けたとはいえ「公教要理」などに書かれている教会のおしえとはずいぶん違った信仰内容をもっているので、カトリックの信者を代表して語る資格は有りません。たとえば、聖書と同じように、教会という人の作った組織も不可謬なものではなく、過ちをおかしやすい人の為せる業だと思っています。
しかし、聖書は、それを書物として読む以前にまず、礼拝の場で聴くもの、そして自ら歌うものであったということは、教会の貴重な伝承であったと思っています。
哲学的な議論の対象としてではなく、一人のキリスト者が、御言葉への信仰のなかで書いた文章ですので、皆様の議論とは噛み合っていないかも知れません。しかし、私自身としては、信仰の場に立脚した上で、広く普遍的な場で理性的な対話をすることは可能であると考えていますので、不十分なものですが、皆様から教えていただいたことをもとに、投稿させていただきました。
貴重な、カトリックの系の立場からのご意見ありがとうございました。
おそらく、教会の権威を相対化するために、プロテスタントの改革者たちが、聖書の権威を利用したことが、近代の聖書主義の土台になったのだろうと思います。ウェルハウゼンやブルトマン以来の聖書批評学を中心とした仕事は、この聖書の権威を相対化するための、「第二の宗教改革」と言えるでしょう。教会を運営する人々も、聖書を書いた人々も、おなじ「罪人」であって、同じ論理に従えば、一方の権威が認められなければ、他方の権威も認めるべきではない、というのは当然だからです。