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「聖書の間違い」ですが、聖書は正しい(神の声)ととらえることが間違いなのでは。キリスト教徒がやたら聖句を持ち出して議論する。聖書にこう書いてあるとね。その事が問題なのでは。

聖書の書かれた時代背景・当時の宗教観・風土・文化・その他いろいろなことを考慮して読みたいです。正しいとか、間違いだとかはどうでもいいのです。言葉を越えた何かを読み取りたいのです。それによって自分自身がいかに「内なる世界」で生きられるかが大切なのではないでしょうか。

聖書以外からも多くのことを学びます。吹く風のからも降る雨からも野の花からもありとあらゆるものからも学びます。正しくないことからも学びます。ユダからも学びます。キリスト教徒の多くが聖書の一字一句が神の啓示と主張するのは実に悲しいことです。その言葉の奥に何を語ろうとしているかを私は求めたい。


とても大切なことがここで語られていると思います。

まず、聖書を理解するのに、「時代背景・当時の宗教観・風土・文化・その他いろいろなことを考慮して」解釈することです。これは、どの書物に関して言えるかも知れませんが、とくに、聖書に関しては大切なことだと思います。

それから、本当に大切な問いは、自分自身がいかに生きるか、ということであって、文字の解釈ではない、ということ。さらに、聖書以外のものからも学ぶ、という姿勢。

これらのことは、たしかに大切なことだと思います。ただ、わたしには「正しいとか、間違いだとかはどうでもいい」とは考えられません。真実は真実と認め、誤謬は誤謬と認め、疑わしきは疑わしきものと認める、そういう努力と判断がなければ、聖書の「時代背景・当時の宗教観・風土・文化・その他いろいろなことを考慮して」も無駄になるし、自分自身がいかに生きるかを決定するのに判断ができなくなるし、「聖書以外のものからも学ぶ」ことすらできないでしょう。「正しいとか、間違いだとかはどうでもいい」のではないと思います。それも、やはり大切なことだと思います。

とくに「聖書」は、しばしば、神の名の権威の下に、「すべて正しいもの」と受け入れられてきており、その真実性を吟味することは大切なことだ、とわたしには思われます。