佐倉哲さん、こんにちは。
下にあります通り、現在神学生として学びをしているものです。(福音主義教会、日本基督教団)
結構ひねくれた信仰遍歴をたどったので、こういうページは好きです。 多少気がついた点などを書かせてください。
「聖書不可謬説」。日本基督教団の信仰告白は福音主義教会以来の伝統に従って、第一段に「聖書」についての言及があります。それによれば、
旧新約聖書は神の霊感によりて成り、基督を証し、福音の真理を示し、教会のよるべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なりうーむ。日本基督教団はいわゆるファンダメンタルな教団ではないはずなんですがねえ。ま、確かに「天地は7日で作られた」という主張とは私たちの信仰告白は関係ない訳なんですよね。聖書に科学主義的な読み方を持ち込むあたり、彼らの言い分はよくわからないところがあります。あ、そこらへんは先ほど拝見した限りでは佐倉さんと見解が一致するのかもしれません。
どうなんでしょうねえ。しかし、「聖書を絶対化することの誤り」にはいきなり行き着くのでしょうか。「聖書」という言葉で佐倉さんが指しているものは文書であるような気がするんですが、間違っていたらごめんなさい。神の言葉ってどうして文書の形を取るんでしょうねえ。文書の絶対化を戒める言葉は
2CO03:06 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。というのが挙げられると思います。そこら辺の意識は佐倉さんが問題にしている、ローマ・カトリックと福音主義教会の間の正典の違いとかインターテスタメントの事と関係があると思います。
ふつう(自分にとって、ですが)いわれていることは、「聖書」が「神の言葉」となるのは聖霊の働きによるのであって、「聖書は神の言葉である」という側面のほかに「聖書は神の言葉となる」という側面を考えます。佐倉さんはお見受けしたところ、クリスチャンではないような気がするのですが、聖書についての言及は聖霊に対する言及とは不可分だったりするのではないのかなあと思います。そうすると、聖霊は神だという信仰から来ると、「聖書が神の言葉」という信仰は必ずしも「聖書信仰」と「神信仰」で別の原理ではないのだけどなあと思いました。
まあここら辺っておもしろそうですねえ。なんか突っつけばどんどんぼろが出てきそう。でも、だからといって、地上の教会が相対的であるということが、教会で得られる信仰の相対性にはつながらないとも思うのですが、その点についてのお考えをお教えくだされば幸いです。
付け加えます。
LUK16:17しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。というイエスの言葉は聖書正典の考え方とつながってふつうは解釈されます。この言葉を後代の教会の挿入だという説は寡聞にして聞いたことがありません。(そういう註解書などをお知りなら推薦してくれると参考になるので、ご教授ください。)
「永遠の命」。永遠の命って結構大事な要素のような気がしますね。お見受けしたところ「聖書正典」と並んでキリスト教の真価を問うならこのポイントだと思います。全くの不勉強にして佐倉さんがどのような背景を持っていらっしゃる方かは存じ上げませんが、すごいですね。
ちょっとだけ言わせてもらうと、通常よく(これまた自分の主観ですが)言われているのは、モーセ五書には復活思想はでてこないというやつですね(ゼカリヤの引用がありますが)。「終わりの日」に甦るというのはユダヤ思想のオーソドックスな考え方だと思いますが、旧約聖書の中からそっくりそのまま都合よく引用することはできないのですね。知らなかった。
そういえば「聖書の間違い」はその目的がよくわかりません。聖書の記述上の齟齬(異なる著者によるものを含む)ならいくらでも挙げられますが、内村の意図がここになかったのは明らかだからです。内村は「イエスとは何者なのか」に問題意識があったのでは。
一応以上です。なんかいいたいことを言ってしまったような気がして恐縮です。若造の戯言だと思って読み流してください。
(なお、憲法や人権に関する上田さんのご投稿はこちらです。)
(1)クリスチャンではない
佐倉さんはお見受けしたところ、クリスチャンではないような気がするのですが…わたしの神やイエスに関する個人的な見解は、「David Ahn さんへの応答」に少しばかり述べております。
(2)「聖書の間違い」の目的と内村鑑三
そういえば「聖書の間違い」はその目的がよくわかりません。聖書の記述上の齟齬(異なる著者によるものを含む)ならいくらでも挙げられますが、内村の意図がここになかったのは明らかだからです。「聖書の間違い」の目的については「はじめに」で、わたしは十分に語っていると思っています。わたしはべつに内村の意図が聖書の間違いを示すことであったなどと言っているわけではありません。また「ただのひとさんへの応答」などでも、より詳しく説明しております。いまのところ、一般論としては、それ以上説明するものもありませんが、目的に関するもっと具体的なご質問でしたら、わたしもお応えできるのではないかと思います。なお、内村鑑三に関するわたしの関心については「MIWさんへの応答」に簡単に述べていますので、参考になるかも知れません。
それにしても、「聖書の記述上の齟齬」とは、たいへん難しい言葉を使用されていますが、もっと単刀直入に「聖書の矛盾」と言った方が読者にとってわかりやすいのではないでしょうか。
(3)質問の意味
地上の教会が相対的であるということが、教会で得られる信仰の相対性にはつながらないとも思うのですが、その点についてのお考えをお教えくだされば幸いです。ご質問の意味がよくわかりません。なにかわたしの語っていることに対する言及だと思うのですが、「教会の相対性」とか「信仰の相対性」とはどういうことなのでしょうか。
(4)聖書は神の言葉となる
ふつう(自分にとって、ですが)いわれていることは、「聖書」が「神の言葉」となるのは聖霊の働きによるのであって、「聖書は神の言葉である」という側面のほかに「聖書は神の言葉となる」という側面を考えます。この「聖書は神の言葉となる」という表現は、わたしにとっては、はじめて聞く表現です。どういう事態のことを「聖書は神の言葉となる」というのでしょうか。もう少し詳しく説明していただけたら、わたしもなにか応答が出来るかと思います。
(5)感想
このお便りは、わたしには、とてもわかりにくいものでした。なんども読み返したのですが、おそらく、ほとんどわかっていないと思います。「信仰の相対性」とか「聖書は神の言葉となる」などという言葉が、何の説明もなく、どんどん飛び出してくるので、わたしにはとてもついていけません。わたしはとても要領が悪いので、ご面倒ですが、一歩一歩順番に説明していただけると、たいへん助かるのですが。
お便りありがとうございました。
98年2月4日
(1)クリスチャンではない
わたしの神やイエスに関する個人的な見解は、「David Ahn さんへの応答」に少しばかり述べております。拝読しました。その中の最後のところにある
しかし、クリスチャンと非クリスチャンが対話するとき、クリスチャンはキリスト教を棄てる用意がなければならず、非クリスチャンはクリスチャンになる用意がなければならない、とわたしは思っています。は全くその通りだと思います。
上田はこれを読んで、「自分の内側に信仰があると思うことは不信仰だ」と誰かに言われたことを思い出しました。
(2) 「聖書の記述上の齟齬」
それにしても、「聖書の記述上の齟齬」とは、たいへん難しい言葉を使用されていますが、もっと単刀直入に「聖書の矛盾」と言った方が読者にとってわかりやすいのではないでしょうか。齟齬と矛盾はニュアンスが違います。共観福音書の中で同じ記事が明ら かに異なる観点からかかれていることから生じる「あれ、同じことを書い ているはずなのに違うなあ」(記事内容を実体化することから来る不一致 ですね)というのが「齟齬」という言い方で言おうとしていることです。
あと、全くの不注意ながら、佐倉さんのホームページを全部見ていなか ったため「著作権」のページの中に「ホームページの著作権」のことだけ でなく「送られてきたメールの著作権」のことまで叙述されているとは思 わず、私信の形で送ったものがホームページに載ったので、佐倉さんは「読 者」とおっしゃっていますが、上田としては「読者」の存在は想定せずに 書いた文章です。
(3)質問の意味
さて、(2)との関連ですが、佐倉さんのこの「聖書の間違い」に関する要旨は、「文書を絶対化することによる聖書信仰と神信仰の二本化はおかしいのではないか」と言うことだと思いました。そうすると、上田の文 書中で地上の教会が相対的であるということが、教会で得られる信仰の相対性にはつながらないとも思うのですが、その点についてのお考えをお教えくだされば幸いです。ご質問の意味がよくわかりません。なにかわたしの語っていることに対する言及だと思うのですが、「教会の相対性」とか「信仰の相対性」とはどういうことなのでしょうか。
神の言葉ってどうして文書の形を取るんでしょうねえ。文書の絶対化を戒める言葉は聖霊は神だという信仰から来ると、「聖書が神の言葉」という信仰は必ずしも「聖書信仰」と「神信仰」で別の原理ではないのだ けどなあと思いました。が関係あると思います。
もっとも、このような議論は、「三位一体という信仰そのものが論理的におかしい」とか「私は信じないぞ」みたいなものだったら特に反論することもないと思ったのですが、そうではないようなのでやはり何か一言書 く必要があるかなと思った次第です。
(4)聖書は神の言葉となる
「聖書は神の言葉である」というテーゼは、ウェストミンスター教会信条(正式名称は忘れました。17世紀の正統主義改革派信条ですね)で「聖書正典66巻は神の霊感を受けてかかれており、それ以外のいかなる文書も神の霊感を受けていない」というような条項から出てくるテーゼです。ふつう(自分にとって、ですが)いわれていることは、「聖書」が「神の言葉」となるのは聖霊の働きによるのであって、「聖書は神の言葉である」という側面のほかに「聖書は神の言葉となる」という側面を考えます。この「聖書は神の言葉となる」という表現は、わたしにとっては、はじめて聞く表現です。どういう事態のことを「聖書は神の言葉となる」というのでしょうか。もう少し詳しく説明していただけたら、わたしもなにか応答が出来るかと思います。
それに対し、「聖書は神の言葉となる」とは、聖書が読まれるときに神の霊感によって神の言葉として解釈される、というような意味で、しかし「聖書が読まれる都度そうなる」というような固定的な考え方ではない聖書観です。このときには「聖霊によって」と言うことがいつ起きるかというのが重要で、第一に考えなければならないのは「神の絶対的自由」を措く考え方です。これによって「聖書を読んでいるときに絶対に私に聖霊が降臨して神の言葉となるんだ」と言った考え方は排除されます。そういうのはいわゆる「私には信仰があるぞ」とほとんど一緒ですね。
結局このことは(3)と関係してくると思います。
(5)感想
このお便りは、わたしには、とてもわかりにくいものでした。なんども読み返したのですが、おそらく、ほとんどわかっていないと思います。「信仰の相対性」とか「聖書は神の言葉となる」などという言葉が、何の説明もなく、どんどん飛び出してくるので、わたしにはとてもついていけません。わたしはとても要領が悪いので、ご面倒ですが、一歩一歩順番に説明していただけると、たいへん助かるのですが。「信仰の相対性」とは、「地上の教会が不完全(私たちが手にとって読むことの出来る聖書も不完全)なんだからいくら神の国を思念したところでそこで得られる信仰なんて相対的なものじゃないか」という意見を指しています。
そういった意見に対して上田が考えている反論のいくつかが前回の上田からの質問&意見の中には見いだせると思います。
書いていることに関して言われたのは初めてですが、言っていることに関しては「よくわからない」と言われることがしばしばあります。特にこの場合、多くの人に見せるという前提が上田の中にはなかったということ とあいまって、「佐倉さんという方は聡明な方のようだ」という先入観があって本来必要であるはずの前提を省いてしまったところは確かにあるかもしれません。
98年2月8日
(1)「信仰の相対性」
「信仰の相対性」の意味については、まだすっきりしないところがありますが、おそらく、
教会や聖書は不完全であるが、そのことから信仰も不完全であるとは言えない。なぜなら、信仰そのものも神から与えられるものだからである。信仰が人間の努力で得られるものであるとしたら、人間の救いは神の恩恵によるのではなく、人間の努力すなわち律法主義に依存することになってしまうであろう。だいたい、そういうことが「教会の相対性」とか「信仰の相対性」という表現で語られているのではないかと推測します。
(2)「聖書は神の言葉となる」
この、「聖書は神の言葉となる」という表現については、
聖書が読まれるときに神の霊感によって神の言葉として解釈される、というような意味であるが、
聖書を読んでいるときに絶対に私に聖霊が降臨して神の言葉となるわけではない、と説明していただきましたが、なんのことかさっぱりわかりません。聖書を読むとき、神の側からの一方的な都合によって、ときどき、聖書が神の言葉になる、ということですか? なんだかよくわかりません。
(3) 「聖書の記述上の齟齬」
齟齬と矛盾はニュアンスが違います。共観福音書の中で同じ記事が明ら かに異なる観点からかかれていることから生じる「あれ、同じことを書い ているはずなのに違うなあ」(記事内容を実体化することから来る不一致 ですね)というのが「齟齬」という言い方で言おうとしていることです。もし「齟齬」というのが、そういう意味であるとすると、
そういえば「聖書の間違い」はその目的がよくわかりません。聖書の記述上の齟齬(異なる著者によるものを含む)ならいくらでも挙げられます・・・という最初の御批評はまったくの的外れです。「聖書の間違い」シリーズにおいて、わたしは「異なる観点からかかれていることから生じる」相違にすぎないものを羅列しているわけではありません。わたしがそこで挙げているのは、まさに、聖書の「間違い」であり「矛盾」です。
「記事内容を実体化する」とは一体なんのことですか。