ニケーヤ会議について
それとは異なる考え方がその時代にあったことを含意しているわけで、とくに、この場合は、「父には始まりがないが、子には始まりがある」と主張したと言われるアリウス派のような考え方を指します。…… 新約聖書におけるキリスト論とニケーア会議に代表される4世紀初頭のキリスト論との間には、あきらかに一つの発展がみられるのです。ニケーア会議は、イエスが神か人かを議論したのではありません。「イエスが神」は議論の前提でした。 「父には始まりがないが、子には始まりがある」の意味は、「時間と歴史の以前にひとり子の神として生まれた」ということです。 すなわち、御子は生まれない方ではなく、また、いかなる点においても生まれない方の一部ではなく、何らかの実態から派生したものでもなく、御自身の意志と計画によって、時間と歴史の以前に、変わることのない、完全な、ひとり子としての神として存在された、ということです。
われわれは、神には始まりがないが、御子には始まりがあると語るために、迫害されているのです。 (ニコメディアの監督エウセビウスにあてたアリウスの手紙 AD321頃 テオドール「教会史」1章5節 島田福安訳)アリウス自身は、「立てられる以前には存在しなかったことになります」と言って「存在しなかった<時>がある」とは言いませんでした。「時間以前」に生まれたから、存在しない<時>はないという神学上の思弁です。少なくとも「イエスを神」とする教理自体には発展も後退もないように思われます。その後70年以上も議論され、今日「ニケーア信条」と呼ばれるのは370年代の記録にあるものです。
だからこそ、ニケーア会議のスポンサーであったローマ皇帝コンスタンチヌスは333年に、反対派の書物は「人々の記憶に残らないように、すべて焼き捨てねばならない…。もしそのような書物を隠し持っている者が発覚したら、ただちに死刑に処する」という勅令を出したわけです。 .....イエスを神とする「正統派」のクリスチャンたちによってそれらは歴史から抹殺された事情があるのです。イエスを人とする資料がない説明には都合の良い説ですが、単純化されすぎているように思います。 同意できない理由は、
(1)400年近くに渡って各地に流布した文書を焚書によって絶滅することは物理的に不可能。 実際、グノーシス的な文書が残っている。一部の読み物はカトリック内でさえ読まれていた。(微妙な信条の違いを文書からだけで読み取るのはつかしい。)
(2)ニケーヤ会議などの動きは東方教会を中心とするもので、ローマ教会は独自の態度を取った。
(3)アリウス派はゴート族などの間に約400年間残り「抹殺」されていない。
(4)どのような異端的信条があったかは、エウセビウス以降の著者による「教会史」などに記録されている。「抹殺」されたので資料がないとは言えない。
わたしは、このキリスト論の発展の背景、すなわちイエスを神と同一視する解釈が現れた背景には、キリスト教の中心がヘブライズムからヘレニズムに移り、「キリスト教のルーツとしてのユダヤ教の伝統が薄れてしまった」ことに大きな理由があると思っています。 もともと、イエスもその弟子たちもみんなアラム語を語るユダヤ人たちでした。しかし、やがて、ユダヤ人のクリスチャンはキリスト教の歴史から消滅していきます。 ニケーア会議の頃には、ユダヤ人のクリスチャンは完全に消滅したのではないでしょうか。ユダヤ人によって始められた宗教運動がユダヤ人抜きのキリスト教に生まれ変わったわけです。その過程とキリスト論の発展過程とは無関係ではない、とわたしは思っています。初期のユダヤ人キリスト教徒が「イエスを神」としなかった、という前提は果して正しいのでしょうか? 「イエスが神」をもっとも明確に表現しているのは、異邦人ルカではなく、ユダヤ人のヨハネに帰される文書やユダヤ人に意味のあるヘブル書においてであるという事実があります。ユダヤ人のマタイが「そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、..」(マタイ28:19)と父、子、聖霊の御名(単数形)と三位一体を示唆しているのです。なぜ「神の名」ではいけないのでしょうか? (なお「御名」は「権威」という意味と考えられます。)今日の意味での人なるイエス論は、むしろラテンにキリスト教の中心が移った後で起こっているのではないでしょうか?
「主なるイエス」について
イエスは「主」と呼ばれましたが、「YHWH」という神の名前で呼ばれたことはありません当時においても現代においてもYHWHは、「主」などのように言い換えられていたので当然です。 ですから「主」が「YHWH」と文脈上同一視される箇所に注目するのです。ただし、「主イエス」が「YHWH」自身であるとされるのは、限られた箇所です。後で述べるように「イエス」=「YHWH」ではないからです。
新約聖書は原則的には、イエスは人と同じ形で子と父という関係で表現されます。しかし、イエスにも神の名前が付いています。
黙示録22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座(単数)が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、「神の名」は原文では「彼の名」になりますが、これは「YHWH」ではないのでしょうか?
22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名(単数)がついている。
むしろ、パウロがしばしば使用した「わたしたちの主イエス・キリストの神」に着目されているのだと思いますが、該当する箇所はエフェソ1:3の一カ所で、あとは「神であり、わたしたちの主イエス・キリストの父である方」という意味です。このような訳しかたは新共同訳のみです。わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。(ローマ15:6) ...(第二コリント1:3)...(第二コリント11:31)...(エフェソ 1:3)... (コロサイ 1:3)...という表現が示しているように、新約聖書におけるイエスの称号「主」を、神の名前である「YHWH」と読み込むには無理があります。
なぜこのような訳になっているか説明いたします。原文は次のとおりです。
τον θεον και πατερα του κυριου ημων Ιησου Χριστου
冠詞 +名詞1 +και +名詞2 となるときは、名詞1と名詞2が一つのユニット、単体の概念として扱われるという規則があります。ただし、名詞1と名詞2が同じ性、人称、数で名詞2に冠詞がない場合です。これは、グランビル・シャープの法則(The Granville-Sharp Rule)と呼ばれています。ここで、名詞1=名詞2だと言っているわけではありませんのでご注意ください。
その規則を適用すると、τον θεον και πατεραは日本語では「神と父」の二者ではなく「神であり父」になります。
新共同訳はτου κυριου ημων Ιησου Χριστουが「神」と「父」の両方を修飾して訳しています。つまり、τον ((θεον και πατερα)του κυριου ημων Ιησου Χριστου)と考えています。そこで「わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方を」になっていますが句点の位置がおかしく、この意味でも「わたしたちの主イエス・キリストの、神であり父である方を」でないといけません。
一方、他の翻訳では、τον ((θεον)και(πατερα του κυριου ημων Ιησου Χριστου))とし、「神であり、わたしたちの主イエス・キリストの父である方を」と訳しています。
いずれにしろ、「わたしたちの主イエス・キリストの神」という意味ではありません。
なぜ、この説明をしたかと言いますと、この規則を適用すると次のように、キリストは神であると明言している箇所がいくつかあるからです。(前回の投稿のときは、ギリシャ語についての議論になるのを避けようと、あえてこの箇所は書きませんでしたが、必要があれば実例を以てご説明いたします。)
2テサロニケ1:12 それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、...また、このように「神」とならんで「主」が使われるとき、ほとんどの場合「私たちの主」になっています。 エペソ1:3「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が」だけが「私たちの主イエス・キリストの神」と言っています。これについては後でお話いたします。2テサロニケ2:16 どうか、私たちの主イエス・キリストであり、私たちの父なる神である方、すなわち、...
テトス2:13 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと...
2ペテ1:1 ...私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。
モーセとイエスについて
たとえば、シラ書45章において、モーセが、神と「顔と顔を合わせ」、「神々と等しい栄光を与えられ」、イスラエルのために「戒めを授けられた」、という記述にみえる、当時のユダヤ人たちの「神の人モーセ」に関する理解があると思われます。 ... ユダヤ人たちに「われわれは、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない」(9:29)と言っていますが、ユダヤ人たちは、イエスがYHWHと同一視されているから怒っているのではなく、モーセと同じような、あるいはそれ以上の「神の人」とされていることに怒っているのではないでしょうか。 そうでなければ、反対するユダヤ人の言葉が理解できないように思われます。(1) 「ヨハネ5:18 ...ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。」とは、ヨハネ書の記者の説明です。 パリサイ人が、そう告白している訳ではありません。パリサイ人が「あの者が神からきたことは知っている。」とヨハネ9:29で言ったら、その方が文脈上理解できないのではありませんか?
(2) 「神々と等しい栄光を与えられ」の訳はどこにありましたか?「神々..」というのもユダヤ人らしくなく疑問です。ベン・シラの知恵は原文がギリシャ語で、45:2は私の調べたところ次のとおりです。
ωμοιωσεν αυτον δοξη <αγιων> και εμεγαλυνεν αυτον εν φοβοιs εχθρωναγιωsは新約聖書でも「聖徒」と訳されています。 「主は彼に聖徒にひとしき光栄を与え、敵のうちにこれを大いならしめたまえり。」(ベン・シラの知恵45:2 日本聖公会) 従いまして、”「神の人モーセ」に関する理解”説は適用できません。
「神の子」について
また、新約聖書の著者たちは、イエスを「神の子」と呼びますが、これもイエスが「神と等しい」ことを断定するものではありません。 ...神の子とされること、(ローマ 8:23) という表現をしているからです。また、イエスも、...(1)無制限に人間が「神の子」ではありません。
ガラテ3: 26 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
(2)「父と一つ」も人々を怒らせましたが、やはり人間にも適用されます。
ヨハネ17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。
(3)「主とおなじかたち」にもされます。ここで主は旧約聖書の「主」です。また「神のご性質にあずかる者」ともされます。
2コリント3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。来るべき世においてはキリストにある者が、そのようにされるという意味です。なお、これらの場合「神の子」は複数形で、冠詞付き単数形はイエスのみに適用されます。単数形の例外はルカ3:38のイエスの系図のみです。2ペテロ 1:4 ...それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
ルカ3:38 エノスの子、セツの子、アダムの子、このアダムは神の子である。ただし、「神の子」とは書かれていません。3:28に「子」があり、...エノスの、セツの、アダムの、神の、になっていて、最後を「神の子」と訳しています。そういう意味でアダムが「神の子」になります。
誰かが自分は「神の子」、「父と一つ」、「神とおなじかたち」だと言ったら、当時のユダヤ人が無視できたと思われますか?また、四福音書は、イエスの宗教的罪状は「神の名の冒涜」であり、根拠は「神の子」としたことだとしています。
ヨハネ19:7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」イエスの反対者と聖書記者の「神の子」は区別しなければいけませんが、聖書記者も次のように表現しています。
ヨハネ5:18 ...イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。
ロゴスとしてのイエスについて
フィローンにとって、ロゴス(言葉)はまず何よりも、神を直接見ることのできない人間と神自身のあいだを取り持つ仲介者です。このために、ロゴスとは、「神のみ使い(メッセンジャー)」であり、「第二の神」であり、神の「長子」であり...神とみなされた使者は人格も無くただの幻か、ぬいぐるみのような物であったということでしょうか? 新約聖書はイエスに人格と意志を認めています。「フィローン説」でも「神は援助を必要とする人々のために人間の姿を取った」と明確に「神」だと言っているように思います。神は援助を必要とする人々のために人間の姿を取ったのであるからして、み使いの姿をとったとしても、何故われわれはなお驚嘆することがあろうか。少なくとも、ひとつだけはっきりしていることは、「神ご自身であるかのように見なす」という説明から明らかなように、フィローンは仲介者を神自身と同一視していないことです。 このことは、「神が人間の姿をとった」という表現から、単純に「だから仲介者は神である」と結論を下すことができないことを示しています。
ただし、神が人間の姿を取るのは、創世記ですでに記されているのでフィローン独特の説ではありません。 また、イエスを神とするのはユダヤ人からは出てこないという主張に反するものではありませんか?少なくとも、「イエスは人間の姿を取った神」ということにはなりませんか?
新約聖書の背景には、今日は失われているいろいろなメシヤ論があります。当時の文書に新約聖書と同じ言葉や概念があっても不思議はありません。同じ言葉や概念がでてくるからと、死海文書、グノーシス、神殿崩壊直後のユダヤ教、ギリシャ哲学などに直接関係付けようとする試みがありました。新約聖書の解釈に直接適用するには、やはり実証的な根拠がなければならないと思います。
今、問題としているのは新約聖書の思想の起源ではありません。新約聖書にどう「イエスが神」について書かれているかです。黙示録では「神のことば」は「王の王、主の主」とされています。
17:14 ...なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。...一方「王の王、主の主」は神であったはずです。19:13 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」(ο λογοs του θεου)と呼ばれた。...
19:16 その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。
申命記10:17 あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、...「神のことば」は「神」、が新約聖書から導かれる結論です。詩篇136:3 主の主であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。
1テモテ6:15 ...神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、
(「王の王」が神のことを指すのは新約聖書のみです。)
トマスの言葉について
しかし、トマスがイエスのことを「あなたはわたしの神です」と言ったわけではありません。新約聖書におけるキリスト論が曖昧なところです。トマスがイエスのことを「あなたはわたしの神です」と言ってはいないのでしょうか?太郎さんに向かって「先生」と言ったら、太郎さんが「先生」だからではありませんか?
ヨハネ20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」「曖昧」ではないと思います。「イエスは神」を否定しようとすると、否定的な所を過大に見るので曖昧に思えるのです。
イエスがひれ伏され拝されたことについて
ひれ伏して拝する相手は必ずしも神ではありません。それは、すでに前回指摘したことです。ただし、新約聖書に出てくるプロスキュネオーを54の節について調べましたが、人に対して使われているのはマタイ18:26のたとえ話一カ所だけでした。
マタイ18:26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。...
創造主と仲介者について
鈴木さんがあげられた数々の例も、イエスは「神からの人」であることを強調した表現と解釈する方が自然であり、新約聖書全体を通じて一貫しているイエス像(創造神ではなく仲介者)にも調和します。すべて「拝む」とは訳されていませんが、イエスを「拝む」と訳せるのはなぜでしょうか?「イエス像(創造神ではなく仲介者)」とのことですが、新約聖書は、イエスを万物の創造者だとしています。
ヨハネ 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。明らかにイエスは万物の「創造者」すなわち「神」とされています。コロサイ1:16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
ヘブル1:8 御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。
ヘブル1:9 あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」
ヘブル1:10 またこう言われます。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。
ヨナ1:9 ヨナは彼らに言った。「私はヘブル人です。私は海と陸を造られた天の神、主を礼拝しています。」とされるとおりです。従ってペテロやヨハネが拒んだ拝む行為をイエスは否定しなかったのです。
イエスの神性を否定するとされる箇所について
まず、新約聖書中にイエスが「神」とされる箇所が多くあります。このことを忘れないでください。特に旧約聖書の神がイエスにそのままあてはめられている所を含めると相当な数になります。 一方、「神と等しい」とされ非難を受けているのに、イエスが「神ではない」と書かれれている箇所はありません。
なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者は誰もいない。(マルコ 10:18)こう言ってから、イエスは自分が「善い者」であることを否定せずに問いに答えています。「あなたは「善い」と私に言う意味がわかっているか?」という意味だと思います。「善い」という言葉自体が神だけに適用されるものではありません。背景となるアラム語またはヘブル語は「善い」だけで色々な意味があるのですから、イエスの質問は常識的ではありません。このイエスの問いの行間を読む必要があるかと思います。
新約聖書は単神論ではありません。つまり「神=父=子=聖霊」ではありません。イエスの神性を否定する「ものみの塔」が「三位一体を支持する”証拠”として用いられる聖句のほとんどは実際には、三者ではなく、ただ二者について述べているにすぎない..」(「聖書から論じる1」1989年版P167)というのは正しい指摘です。聖書も三位一体論も単神論を説いてはいません。神=(父、子、聖霊)が聖書と伝統的キリスト教の解釈です。従って、「イエスは神」、「父は神」、と言いますが「神はイエス」、「神は父」、「神は聖霊」と原則的には言いません。「原則的に」というのは「神は霊である」と書かれていてもおかしくないということです。なぜなら、それは神の属性が「霊」だということで、「父」であるかないかについては述べていないからです。
また「父」「子」「聖霊」に独自の人格を認めますので、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」と書かれていても驚きません。
イエスの「わたしの神」について
神のキリスト(油注がれた者)という表現とともに、エペソ1:3で「わたしたちの主の神」、すなわち「父」と書かれています。新約聖書は、キリストは神であるが、肉体をとり人間として地上で過ごしたと言います。
ヘブル2:17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。しかし、イエスは地上においても、ただの人ではありません。イエスは貧しい人を助けたといいますが、実際には超自然的な方法により援助しました。同様に、自分は「安息日の主」だとも、「アブラハムの生れる前からわたしは、いる」と普通の人ではないと明言します。ローマ8;3 神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
ヘブル2:6-7 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
ヨハネの福音書は明確に「イエスは神」としますが、イエスは「父」を「わたしの神」と呼んでいます。ヘブル書では”旧約聖書の”「神」がキリストに向かって「神」と言っています。
1:8 御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。つまり「神よ」の神はキリストであり、「神」が「あなたの神」から油を注がれることになります。ヘブル書の著者は、この「矛盾」を承知で書いています。詩篇45:6の冒頭については、王の婚姻の歌であることを理由に「神よ」を様々に解釈する試みがありますが、ヘブル語本文は七十人訳の読みのとおりです。 従って、「神のキリスト(油注がれた者)」、「わたしたちの主の神」、イエスの「わたしの神」はキリストに油を注いだ神という意味です。「この方(父)のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています」(ヨハネ8:54)は「神は自分たちの父だ」と言った人々に向けられたものですが、イエス自身の言葉で何が人々の「神」かを語っています。この発言の後「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」(ヨハネ8:58)と言ったので人々は怒りました。1:9 あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」
イエスが「わたしの神」と「神」を呼ぶのは、私の調べたところ、新約聖書中に5節あります。ヨハネ20:17、黙示録3:2、3:12、マタイ27:46、マルコ15:34 です。マタイとマルコは「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」とイエスが叫んだ箇所です。この件については、別途投稿しましたのでそちらをご覧ください。
ここで、「イエスは神」が明確な、ヨハネ書と黙示録に出てくるのです。イエスが神を「わたしの神」と呼ぶことは、イエスの神性の否定ではなく、むしろヘブル書のように父も子も神との主張の中から出てくるものだということです。ヨハネ20:17でイエスは、わたしたちの「父」、わたしたちの「神」と表現せずに「『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」と言っています。これはイエスにとっての「わたしの父」「わたしの神」が「あなたがたの父」「あなたがたの神」と同じ意味ではないことを示唆しています。
結論
以上、新約聖書を読んで1世紀の人たちが「イエスは神」と読むのが当然のように思います。 「イエスは神」が誤読であったと仮定しても、新約聖書を読んで「イエスが神」と思わない初期のキリスト教徒を想定することは困難です。
(1)「イエスは神と読むのが当然」?
新約聖書を読んで「イエスが神」と思わない初期のキリスト教徒を想定することは困難なのは、イエスを神と初めから信じているからではありませんか。たとえば、
「父」「子」「聖霊」に独自の人格を認めますので、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」と書かれていても驚きません。といわれていますが、鈴木さんが「驚」かれないと言われるのは、単に伝統的信仰箇条(三位一体説)にどっぷりつかっておられるという告白に過ぎないのであって、ここでは、そのような信仰箇条の色眼鏡で新約聖書を読んでおられることが表明されているにすぎません。 また、
これはイエスにとっての「わたしの父」「わたしの神」が「あなたがたの父」「あなたがたの神」と同じ意味ではないことを示唆しています。というご意見にしても、たとえ、それらが同じ意味ではないとしても、そこから、「イエスは神である」、という積極的な主張は論理的に帰結しません。つまり、初めからイエスは神という前提で読まれているために生じた論理の飛躍です。
さらに
2テサロニケ1:12 それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、...なども、「私たちの神と主イエス・キリストの恵みによって・・・」また「主イエス・キリストと・・・私たちの父なる神・・・」と読めるのではありませんか。実際、新共同訳だけでなく、改訳もRSVもNRSVもNIVもNAVも、すべて世に出回っている翻訳はそのように訳出しています。いったい、誰が、鈴木さんの言われるような訳出をしていますか。イエスを神と自ずから信じてしまっている、小さな保守的神学者の内輪だけに出回っている偏った訳出ではないですか。2テサロニケ2:16 どうか、私たちの主イエス・キリストであり、私たちの父なる神である方、すなわち、...
例を挙げればきりがありませんが、他の箇所もおなじように、初めからイエスは神という前提で読まれていることから生じる、きわめて一方的な解釈だと思われます。
「イエスは神である」という後代に作られた伝統的信仰箇条などを前提としないで新約聖書を読めば、「(神ではなく)神が使わした予言者・メシヤ」、「(神ではなく)神と人との仲介者・メシヤ」、「(神ではなく)神の子・メシヤ」というイメージが、新約聖書の語るイエス像として浮かび上がってくると思います。
そもそも、神は死ぬことができません。それゆえ、神は復活することもできません。したがって、イエスが神と同一でないことを前提にした上でのみ、イエスの死と復活が意味を持ちます。福音書のイエスの死とその復活の物語を読んでいて、その非日常性はともかくとして、論理的に何の困難も感じないのは、「イエスは神」というイメージが、鈴木さんの主張に反して、福音書に欠けているからです。
後代、イエスを神ご自身としたために、教会教父たちは、論理的困難に陥って、結局、「三位一体」「イエスは神であるとともに人である」というような奇妙な教義を作り上げたのだと思います。
(2)イエスを人とする資料
初期に「イエスを人とする資料がない」のはイエスが人であることが誰にも当然だったからではないでしょうか。イエスは三〇才近くまでほとんど無名の大工の息子でした。
この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。(マルコ 6:3)イエスがひとりの人間であったという事実が、あまりにも当たり前のことだったのであれば、「イエスは人間であった」などとわざわざ書く必要などなかったはずです。「イエスを人間である」とわざわざ書かねばならない状況は、イエスが人間以上の存在であるように信じる人々が現れるようになってからでなければなりません。イエスが神として信じられていたならば、弟子たちがイエスを見捨てて逃亡するわけがありませんから、イエスは彼が死んだ後、(ユダヤ教の伝統から離れているヘレニストの)信者の信仰の中で次第に超人間化されていったと想像されます。
なぜなら、すでに指摘したように、イエスを神とする教義が、テルトリアヌスなどの、ローマ・カトリック教会の教義の礎を造った非ユダヤ人教会教父たちによって形づくられていったその同じ歴史過程で、イエスを神とすることなくメシアとして受けれていたユダヤ人のクリスチャンが、しだいにキリスト教の世界から姿を消しているからです。
すでに、新約聖書のなかでもその後期に書かれたヨハネの福音書(一世紀の終わり頃)では、イエスの敵対者は、「祭司長」や「パリサイ人」や「律法学者」としてではなく、「ユダヤ人」として描かれています。二世紀にはいると、マルキオンの教会のように、ユダヤ教の聖典(旧約聖書)を認めないキリスト教運動が大いに勢力を広げます。そして、やがて、テルトリアヌスのような反ユダヤ人主義者(Christian Antisemitism, William Nicholls)を含む初期の教会教父たちの手によって、「三位一体」などの、いわゆる「正統」とのちによばれるキリスト教の教義がしだいに確立されてゆきます。
おそらく、最後のユダヤ人のクリスチャンの記録として残されているのは、いわゆる「エビオナイト」(Ebionites)と呼ばれたユダヤ人クリスチャンのグループに関するもの(二世紀)だろうと思いますが、このユダヤ人のクリスチャンの資料(「エビオナイトの福音書」The Gospel of Ebionites、と呼ばれている)によれば、彼らは、イエスの処女懐胎を信ぜず、また、イエスを創造主と同一視することなく、神から使わされた「単なる預言者」と見ていたために、たとえば、テルトリアヌスのような反ユダヤ人主義の教会教父たちから非難されています(Stephen Goranson, "Ebionites"; William L. Petersen, "The Gospel of Ebionites", The Anchor Bible Dictinary)。つまり、二世紀、まだユダヤ人のクリスチャンが存在していた頃には、「イエスは神ではなく人」であると信じていたクリスチャンがいたことが知られています。
このように、もともとユダヤ人の間でユダヤ人によって始められた宗教運動(キリスト教)から、やがてユダヤ人自身の場所が完全になくなっていった歴史過程が、もともと「イエスは人」と考えていたクリスチャンが消滅していった歴史過程でもあったわけです。キリスト教が反ユダヤ主義に傾き、ユダヤ教の伝統から離反していったことこそが、キリスト教がイエスが神と同一視されてしまうことになった大きな要因であったと思われます。