日本にクリスチャンが少ない理由としての佐倉さんの考察は当たっていると思います.
今日はイエスが神であるかどうかという問題に少しばかり苦しんだキリスト者としてお話しさせて下さい.
私は両親ともクリスチャンで,いわゆるクリスチャンホーム(この言い様は好きではないのですが)と言われる家庭に生まれました.ついでに言わせていただければ,叔父が牧師で二人の祖母もクリスチャンで,もっと遡れば祖祖父の代からキリスト教ですから,親戚の多くがキリスト教というキリスト教が当たり前の環境で育ったのです.ですから,イエスが神であるということは,疑う余地もない事実として洗脳されていきました.
しかし,自分で聖書を読み始め,イエスと神が同一であることを論理的に理解する困難になってきました.たとえば,イエスが神に祈るとき,自分自身に祈っていることになるのかとか,イエスが神をアバと呼ぶときイエスは親であり子であるとのかとか,数えたらきりがありません.しかしそのたびこう自分に言い聞かせていました.”論理的に理解できなくて良いんだ.論理を越えたところにキリスト教があるんだ.ただそう信じていれば良いんだ”しかし,ことある毎にこの疑問は絶えることがありませんでした.
そして,10年ほど前私の属する教会に赴任した牧師との出会いと葛藤から,一つの方向を見いだしました.彼からキリスト教会が三位一体を取り入れた(この言い方は適当ではないかもしれませんが)経緯を学びました.佐倉さんが言われるようにニケア会議のいきさつです.それに対して,私は伝統的信仰というか聖書の読み方で,聖書のこの箇所は三位一体を言っているじゃないかと反発していましたが,これもまた佐倉さんが言われるように,解釈は一通りではないことを教えてもらいました.それから,私もできるだけいろんな前提を抜きにして聖書を読むように心がけ始めました.そんなころ読んだ”どう読む聖書”(青木太潮さんの本だったかな?)も大きな助けとなりました.
いまでは,”イエスは神に祭り上げられた”と確信を持っています.イエス自身もそう思っていると思います.神としてのイエスより,小さき者と共にいるイエス,同伴者としてのイエスに魅力を感じるようになりました.後の教会がねじ曲げてしまったイエスを取り戻したいと願っています.
イスラム教の文書にこのような話があるそうです.(ご存じかも)ある時イエスは”お前は神の子か?”と聞かれ”そうだ私は神の子だ,そしてあなたも神の子だ”と応えた.これはまさに史的イエスの言葉じゃないかと思っています.
それまで見たこともないものすごい感性で生き抜いたイエスを当時の人は”神の子”という表現したのだろうと思っています.神としてではなく神の子としてのイエス,そしてあなたも神の子だと言ってくれるイエスを私は信じたいと思っています.
以上まとまりのない話で失礼しました. 思うままに書かせていただきました
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれるであろう」(マタイ 5:9)と語るイエスの宗教と、イエスと聖霊と神の三位一体を信じないものを異端として排斥する宗教との間には、なにか本質的な相違があるように思われます。
とても貴重な個人的な経験をありがとうございました。