「十字架のあがないと日本人」について「神としてのキリスト」の中に事実と異なる点があるかと思います。神がイエスとして人となった、というのは初期のキリスト教徒においても新約聖書においても信じられていたことであると考えられます。

(1)数百年後とはいつのこと?

「キリストを神とする考え方が、キリスト教の発生してから数百年後にでてきますが」とありますが、これは具体的にいつのことでしょうか?「ローマにその中心を置くようになって」になってという記述からAD300年以降のことのように思われます。別のページではそう発言されているようです が。それは事実と違うのではないでしょうか?

(2)初期の文書

三位一体という用語を用いた最古の資料はテルトリアヌスの「プラクセアス反論」です。 テルトリアヌスはAD160頃〜220年代と推定される人で、この作品はテルトリアヌスが初期カトリック教会から離れた210年代と推定されています。この中には、現在の三位一体論とほとんど同じ体系的な議論が書かれています。従って、三位一体論は2世紀末には成立していたと考えられます。この著書において三位一体論は、イエスが神であったことを論証する目的ではありません。冒頭で「父ご自身がイエス・キリストである」という単一神論に反対して書いていることが分かるのです。父と子の人格の関係について議論されているのです。イエスの神性はこの議論の前提です。

また、AD110年代と推定される、イグナチウスのエペソ人への手紙では、「彼は人から生まれ、同時に人によらないで生まれ、神が人となり、死のうちに真の生命を得たもの」と表現しています。テルトリアヌスとの違いは微妙な人格問題にではなく、神が<人となった>ところに強調があるわけです。

これらは典型的な例です。「キリストを神とする」のは資料的に、少なくとも新約聖書成立直後に遡ることができます。

(3)新約聖書の中でイエスは神とされているか

では、そもそも新約聖書の中で、イエスは「神」とされてはいないのでしょうか?逆ではないでしょうか?新約聖書全般に多くの根拠がありますが主な個所について要約いたします。

1.イエスが「主」と呼ばれていることについて

「安息日と麦畑」の件では、イエスの弟子たちは祭司だから安息日に祭司しかできないことをしても罪にならない(マタイ12:5)のだと言われています。誰に仕える祭司でしょうか。それは「宮より大きな者」イエスです。「大きな者」自体は必ずしもイエスを指すとはいえませんが、「人の子は安息日の主です」で、そう考えるのが自然だと思われます。「人の子」はイエス自身のことですから、イエスは安息日の主だといっている訳です。「主」というのはこの文脈では、「ご主人様」という意味でありえましょうか?「安息日の主」はヘブル語聖書の主ヤハウエではありませんか。

ローマ10:9では「あなたの口でイエスを主と告白し、...と信じるなら、あなたは救われるからです。」とあり、更に旧約聖書のヨエル2:32を引用して「主の御名を呼びも求める者は、だれでも救われる」(ローマ10:13)と書かれています。この場合「主」はやはり神のことで、イエスを主と告白するのは、イエスが旧約聖書の主といっているのと同じに扱われているのです。

ヨセフスは「ユダヤ古代誌」18:23のなかでガリラヤのユダについて書いています。この熱心党にとっても「主」は人間ではありませんでした。要約すると、

「神のみが彼らの唯一の支配者で主であるべきだと言って、死の恐れをも ってしても、彼らに人間を「主」と呼ばせることができなかった。」
のです。 (William Whiston訳 Vol.18-(6)で全文入手可能です。)

また別件のメール「アビアタルとアヒメレク」でマルコ1:3のイザヤ書の引用で述べましたが、イザヤ書40:3の主(ヤハウェ)がマルコ1:3の引用ではイエスを指しているのです。

「新世界訳」では、神名を表す神聖四文字を背教したキリスト教徒が「主」に書き変えたとして、新訳聖書の「主」を必要に応じてエホバに変えています。原文のままでは、イエスは「主」すなわち神のことになってしまうからです。

2.イエスが礼拝されていること

しばしばイエスは礼拝を受けています。(マタイ8:2、14:33、28:9など)ヘブル1:6では「 さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」」と書かれています。この「拝む」というのは王の前でひれ伏す行為も意味しますので、「新世界訳」ではイエスが目的語のときには「敬意をささげる」と訳し、イエスが神にならないようにしています。しかし、このように訳すと次の使徒行伝の個所は意味不明になります。

10:25 ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝んだ。
10:26 するとペテロは彼を起こして、「お立ちなさい。私もひとりの人間です。」と言った。
拝んだからこそペテロは「私もひとりの人間です。」と拒否したわけです。確かに「ひれ伏す」と訳してもさしつかえない場面がありますが、イエスに対するときだけ「拝む」と訳さないのはイエスを「神」としないようにするための意図的な訳です。 

AD400年頃のユダヤ教の資料はこのように言っています。

ラビ・イサクは言った。またすべては、ひれ伏す行為によって得られた功績のゆえであった。アブラハムはひれ伏す行為による功績によってのみモリヤの山から安らか に戻ってきた。...イスラエルはひれ伏す行為による功績によってのみ贖われた。(創世記ラッバ56:2)
ユダヤ人にとって「拝む」ことは勿論、「ひれ伏す」ことでさえ、いかなる意味を持つかを示唆していると思います。

3.「突き刺した方」とは誰か?

   ヨハネ19:37では「また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」と言われているからである。」と書かれています。これはゼカリヤ12:10の引用で、イエスの最期が聖書の預言の成就であるとしています。ゼカリヤ12:10には「 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、<わたし>を仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、...」とあります。つまり、「わたし」は「突き刺した方」であり旧約聖書の神自身なのです。これについて「新世界訳」はゼカリヤ書で「突き刺した者を見つめ...」と訳し「わたし」を脱落しています。なぜなら、原文の通り「わたし」を入れると「ものみの塔」の教理に反してイエスは神であることになるからです。

4.その他ヨハネ書では多くの個所をあげることができます。

「わたしと父はひとつです。」(10:30)
「ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられた」(5:18)
ので人々は怒りました。「父はひとつ」はまさにユダヤ人が大切にしている申命記6:4「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」の「主はただひとりである」です。「ただ」は意訳であり、直訳は「主はひとつ」です。ですから「ご自身を神と等しくし」たことになるのです。もし「父とわたしはひとつです」とイエスが言ったら少し意味が違ってくるのです。

もうひとつ大切なことは、「ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられた」という解説です。イエスの時代に一般に「神の子」という言葉がどのように受け取られたかは不明な点があります。しかし、すべての福音書に出てくる「神の子」という言葉が「ご自身を神と等しくして」いたことに関係があることはこの個所から分かります。

5.その他のヨハネ書の個所

1:1ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

20:28トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」

6.ピリピ2:6

2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てること ができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
「神の御姿」(μορφη Θεου)は「神の形、性質」という意味です。

7.ヘブル1:3

1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力 あるみことばによって万物を保っておられます。
「神の本質の完全な現われ」は意訳で、直訳は「神の本質の刻印(印影、肖像)」です。刻印(χαρακτηρ)は英語のcharacterの語源です。

8.黙示録

例えば1:17−18のイエスの言葉、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。
の「最初であり、最後であり」は、まさにイザヤ書44:6、48:12です。
イザヤ44: 6「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。」
イザヤ48:12「わたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである。」

(4)以上のように初期のキリスト教徒の文献において、新約聖書において「イエスは神」とされていると思います。そうでないなら、初代キリスト教徒や新約聖書の語るイエスとは何でしょうか? また、1〜3世紀のキリスト教徒がイエスを「神でない」としている文書があるのか、お尋ねしたいのです。そのような文書があれば私自身、大変興味があります。

                 


(1)数百年後とはいつのこと?

325年のニケーア会議を念頭に置いた発言だったのですが、もちろん、キリストを神と同一視する考え方がそのとき突然現れたわけではないですから、そのような考え方が「キリスト教の発生してから数百年後にでてきます」というわたしの表現は誤解を招くものだったと思います。

ニケーア会議を念頭に置いたのは、そこにおいて、キリストは

神からの神、光からの光、真なる神からの真なる神、造られたのでなく産み出されたのであり、父と実体において一つ…
である、というような(初期のキリスト教の文献にはない)表現によって、それが公的にキリスト教の正統的な考え方であるとされたからです。そういうことを、大々的に決定したことの背後には、それとは異なる考え方がその時代にあったことを含意しているわけで、とくに、この場合は、「父には始まりがないが、子には始まりがある」と主張したと言われるアリウス派のような考え方を指します。だからこそ、ニケーア会議のスポンサーであったローマ皇帝コンスタンチヌスは333年に、反対派の書物は「人々の記憶に残らないように、すべて焼き捨てねばならない…。もしそのような書物を隠し持っている者が発覚したら、ただちに死刑に処する」という勅令を出したわけです。

もちろん、よく知られているように、その後、数世紀に渡ってキリスト教を支配したローマ教会は、同じように、異端書は焼き捨て、異端者は破門や火あぶりの刑などに処しています。鈴木さんと同じように、「1〜3世紀のキリスト教徒がイエスを「神でない」としている文書」には、わたしも興味がありますが、イエスを神とする「正統派」のクリスチャンたちによってそれらは歴史から抹殺された事情があるのです。


(2)キリスト論の発展

新約聖書のキリスト論には、鈴木さんがたくさん例を挙げて指摘されたように、キリストを神と同一視する解釈を可能とする表現はあっても、ニケーア会議において採択されたような、「神からの神」とか、「真の神からの真の神」とか、創造神と「実体において一つ」というような、曖昧さのない表現でキリストと神とを同一視する言葉は語られてはいません。つまり、そこには、明らかにキリスト論の発展が見られます。新約聖書のキリスト論にはあいまいさがあり、複数の解釈可能性を残しています。


(3)「主」としてのキリスト

イエスは「主」と呼ばれましたが、「YHWH」という神の名前で呼ばれたことはありません。むしろ、パウロがしばしば使用した

わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。(ローマ15:6)

わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。(第二コリント1:3)

わたしたちの主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです。(第二コリント11:31)

わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。(エフェソ 1:3)

わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなた方に知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、こころの目を開いてくださるように。(エフェソ 1:17)

わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。(コロサイ 1:3)

という表現が示しているように、新約聖書におけるイエスの称号「主」を、神の名前である「YHWH」と読み込むには無理があります。


(4)「神の子」としてのキリスト

また、新約聖書の著者たちは、イエスを「神の子」と呼びますが、これもイエスが「神と等しい」ことを断定するものではありません。たとえば、パウロは、

被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり体の購われることを、こころのなかで、うめきながら待ち望んでいます。(ローマ 8:23)
という表現をしているからです。また、イエスも、
平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれるであろう。(マタイ 5:9)
と語っています。

ヨハネの福音書は特にそうですが、イエスと神がとくに親密な関係にあり、イエスが「神のもとから来られた」ことを、とくにモーセとの比較の中で強調します(1:17; 1:45; 3:14; 5:45-46; 6:32; 7:19-7:22; 9:28-34)。「神をご自分の父と呼んで、ご自身を神と等しいものとされた」ので「ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった」という記述の背景にも、たとえば、シラ書45章において、モーセが、神と「顔と顔を合わせ」、「神々と等しい栄光を与えられ」、イスラエルのために「戒めを授けられた」、という記述にみえる、当時のユダヤ人たちの「神の人モーセ」に関する理解があると思われます。

ヨハネは、ユダヤ人たちに「われわれは、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない」(9:29)言わせていますが、ユダヤ人たちは、イエスがYHWHと同一視されているから怒っているのではなく、モーセと同じような、あるいはそれ以上の「神の人」とされていることに怒っているのではないでしょうか。そうでなければ、反対するユダヤ人の言葉がこのようなものですむとは思われません。


(5)「ロゴス(言葉)」としてのキリスト

おなじく、このヨハネ福音書第一章の「ロゴス(言葉)」と「神」と「キリスト」の関係も、イエスが「神のもとから来られた」ことを強調しているヨハネに顕著な観点から理解することができます。そして、それらは単純に「=」で結ぶことのできるものではありません。

ヨハネの記述は詩的でとても美しいものですが、それゆえに、それらの概念が「=」で結びつけることができるかどうかを決定するための定義の明確性に欠けています。ヨハネ福音書より半世紀ほど前に書かれた、ユダヤ教神秘主義者でありヘレニストでもあったフィローンの著作には、「ロゴス(言葉)」と「神」と「神と人との仲介者」の関係に関する考え方が、かなり鮮明に語られていて、後代のキリスト教のヨハネ解釈との興味深い比較ができます。

フィローンにとって、ロゴス(言葉)はまず何よりも、神を直接見ることのできない人間と神自身のあいだを取り持つ仲介者です。このために、ロゴスとは、「神のみ使い(メッセンジャー)」であり、「第二の神」であり、神の「長子」であり、神の「初子」である、とされています。(『原典新約時代史』p.584)しかし、同時に、仲介者と神自身が同じでないことにも注意が払われています。

これを、かの、神的像と異ならぬ非身体的なるもの(ロゴス)であると考えるならば、あなたは、「上昇」という名でもってこのものが最も正確に名付けられていることに同意するであろう。なぜなら、このものは万物の父が育て上げた長子であり、別のところでは「初子」と名付けたところの者なのだから。そして、実際、こうして生まれた者は、父の道に倣い、父の原型的な模範をみつつ、もろもろの形を形づくったのである。(フィローン、「言葉の混乱について」62-63、荒井献訳、同上)

神は援助を必要とする人々のために人間の姿を取ったのであるからして、み使いの姿をとったとしても、何故われわれはなお驚嘆することがあろうか。従って、神が「われは神なり、神の場所にて汝に現れしものなり」と言うとき、彼は未だ真実の神を見ることのできぬ者の益のために、自ずから変化することなく、ただ外見上、み使いたちの場を占めたのであることを悟るがよい。なぜなら、太陽それ自身を見ることのできない者が、幻日の微光を太陽であるかのように眺めるように、また月の回りの光輪を月そのものとして眺めるように、そのように、神の似像、すなわち彼のみ使いないしはロゴスを、神ご自身であるかのように見なすのである。(フィローン「夢について」238-239、荒井献訳、同上)

ヨハネの福音書が書かれる半世紀ほど前に書かれた、このフィローンのロゴスに関する記述の中には、新約聖書の著者たちがイエスについて語った表現が沢山見られます。創造神はロゴスの「父」であり、ロゴスは創造神の「長子」あるいは「初子」であり、ロゴスは「父の道に倣い」、創造の業に携わり、人の救いのために神が「人間の姿をとった」ものである、等々。新約聖書の作成時代のクリスチャンたちはフィローンらの思想から影響を受けたのでしょうか。そのように見えます。

少なくとも、ひとつだけはっきりしていることは、「神ご自身であるかのように見なす」という説明から明らかなように、フィローンは仲介者を神自身と同一視していないことです。このことは、「神が人間の姿をとった」という表現から、単純に「だから仲介者は神である」と結論を下すことができないことを示しています。

パウロによれば、イエスは「最後のアダム」(コリント第一15章)でしたが、フィローンによれば、アダムは「ロゴスの似姿」です。モーセも仲介者(出20:19)としてのロゴスです(「夢について」1.133-147)。ここから、ヨハネが、イエスを「ロゴスが肉となって」現れたもの(ヨハネ1:14)という表現するまでには、大きな飛躍はないと言えるでしょう。飛躍は、「ロゴスが肉となって」現れたものを神自身であると解釈するところにあります。


(6)その他

確かにヨハネの福音書によれば、トマスは、死んだはずのイエスが突然現れたのを見て驚愕し、「わが主よ!わが神よ!」と絶句したことになっています。しかし、トマスがイエスのことを「あなたはわたしの神です」と言ったわけではありません。新約聖書におけるキリスト論が曖昧なところです。わたしたちは、むしろ、イエス自身がなんども自分と神とを区別する場面を福音書に見ることができます。

なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者は誰もいない。(マルコ 10:18)

わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神からのものか、わたしが勝手に話しているのか、わかるはずである。(ヨハネ 7:16-17)

わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(マタイ 27:46)

わたしの父であり、あなた方の父である方、また、わたしの神であり、あなた方の神である方のところへわたしは上る。(ヨハネ 20:17)

それだけではありません。イエスが洗礼を受けたとき、神自身が次のようにイエスに語ります。
あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。(マルコ 1:11)
これは、神がイエスを自分自身であると知っておりながら述べた言葉であるとは考えにくいものです。

また、イエスが拝された事についてですが、旧約聖書の伝統において、ひれ伏して拝する相手は必ずしも神ではありません。神の代理者である、み使いや予言者たちも、人々にひれ伏され拝されています。

ヨシュアがエリコのそばにいたときのことである。彼が目を上げて、見ると、前方に抜き身の剣を手にしたひとりの男がこちらに向かって立っていた。ヨシュアが歩み寄って、「あなたは味方か、それとも敵か」と問いかけると、彼は答えた。「いや。わたしは主(ヤーヴェ)の軍の将軍である。今、着いたところだ。」ヨシュアは地にひれ伏して拝し、彼に、「わが主(ヤーヴェ)は、この僕に何をお言い付けになるのですか」と言うと、主(ヤーヴェ)の将軍はヨシュアに言った。「あなたの足から履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なるところである。」ヨシュアはそのとおりにした。(ヨシュア5:13-15)
ここで、ヨシュアがひれ伏して拝したのは、神ではなく、神の軍隊の将軍です。つまり、神のみ使いです。また、死んだ子どもを生き返らせた「神の人」エリシャに対して、その子の母親はひれ伏します。
彼女は近づいてエリシャの足下に身をかがめ、地にひれ伏し、自分の子どもを受け取っていった。(列王下4:37)
エリシャは神ではなく、「神の人」、つまり予言者です。このように、聖書には、神にではなく、神の代理者に対して、人はひれ伏し拝しています。新約聖書において、イエスが拝されているのは、イエスが神だからではなく、「神からの人」だからではないでしょうか。


(8)結論

ほかにもたくさんありますが、これらの例は、新約聖書においては、そう簡単に「イエス=神」と解釈することはできないことを示しています。鈴木さんがあげられた数々の例も、イエスは「神からの人」であることを強調した表現と解釈する方が自然であり、新約聖書全体を通じて一貫しているイエス像(創造神ではなく仲介者)にも調和します。新約聖書におけるキリスト理解は、ニケーア会議において採決されたキリスト論があいまさのない表現でイエスを神自身であるとした立場とは違うものです。つまり、新約聖書におけるキリスト論とニケーア会議に代表される4世紀初頭のキリスト論との間には、あきらかに一つの発展がみられるのです。その発展のなかで、キリスト教はある重要な一線を越えたのです。つまり、あるひとりの人間(ナザレの大工ヨセフの長男イエス)を、単なる「神からの人」としてではなく、神自身としたのです。

わたしは、このキリスト論の発展の背景、すなわちイエスを神と同一視する解釈が現れた背景には、キリスト教の中心がヘブライズムからヘレニズムに移り、「キリスト教のルーツとしてのユダヤ教の伝統が薄れてしまった」ことに大きな理由があると思っています。もともと、イエスもその弟子たちもみんなアラム語を語るユダヤ人たちでした。しかし、やがて、ユダヤ人のクリスチャンはキリスト教の歴史から消滅していきます。ニケーア会議の頃には、ユダヤ人のクリスチャンは完全に消滅したのではないでしょうか。ユダヤ人によって始められた宗教運動がユダヤ人抜きのキリスト教に生まれ変わったわけです。その過程とキリスト論の発展過程とは無関係ではない、とわたしは思っています。